市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素《もと》林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚《なら》つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
 彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
 墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
 是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺《かんなべ》に宿つてゐて菅茶山の筆に上《のぼ》せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳《つまびらか》ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井《からしまえんせい》に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
 茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か※[#「にんべん+慊のつくり」、第3水準1−14−36]か」と見える漢子《かんし》を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
 茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候《うかが》ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻《たゞ》に病の故のみではあるまい。
 わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅
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