る。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
 改葬には二つの方法がある。古墓石を有形《ありがた》の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森|枳園《きゑん》一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須《ま》たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
 池田宗家の墓が谷中に徙《うつ》された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。

     その八十八

 池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※[#「目+示」、7巻−180−下−11]《しめ》した。わたくしは上《かみ》に云つた如く、直卿《ちよくけい》の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田|寛《くわん》さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
 わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
 善卿は初代瑞仙の字《あざな》である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗《なのり》としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
 是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復《また》疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
 京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書して
前へ 次へ
全567ページ中147ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング