《ざうきよ》中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来《たづさへきた》りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女《むすめ》かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑《しばら》く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯《あやま》つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶《めと》つた。
その八十七
池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女《まごむすめ》の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前《さき》に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本《もと》生田氏、周防国|玖珂郡《くがごほり》通津浦《つづうら》の人である。明の遺民|戴笠《たいりつ》、字《あざな》は曼公《まんこう》が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父|嵩山《すうざん》が笠を師として痘科を受けた。
錦橋は宝暦十二年に広島に徙《うつ》り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川|家斉《いへなり》の聘を受け、九年に江戸に入つた。
錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲《つ》がしめた。京水は分家して町医者となつた。
錦橋と其末裔との事には許多《きよた》の疑問がある。疑問は史料の湮滅《い
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