如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
 太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖《がい》に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
 五月六日に蘭軒は阿部家に轎《かご》に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂《いはゆる》屋敷内は丸山邸内である。
 六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫《あねむこ》飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信《りしん》である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本《もと》立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅《ぐわいきう》飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫|久教《ひさのり》に仕へたのは、休甫信謀《きうほしんぼう》である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女《ぢよ》を迎へてこれに配した。所謂《いはゆる》取子取婦《とりことりよめ》である。
 秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎《かご》に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲《つ》いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
 此秋蘭軒は始て釈混外《しやくこんげ》を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農
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