を嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開《そうかい》したのを暁《さと》らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝《へいしつ》を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子《そのこ》刀自の語る所に従つて記す。
蘭軒は阿部邸に徙《うつ》るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂《いはゆる》石取《こくどり》の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一|構《かまへ》をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲《けみ》するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙《うつ》つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵《いた》るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉《つく》すことが出来る。これも亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの所蔵である。
その七十八
茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸《やうやく》此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりに
前へ
次へ
全567ページ中130ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング