して客を会する豆日草堂集《とうじつさうだうしふ》の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
 錦里先生は茶山を斥《さ》し、蘇門の高士は栗陰《りついん》を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁《せうをう》の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保《りつさいふくはう》は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字《あざな》は君節《くんせつ》、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注|准南子《ゑなんし》の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年|閏《じゆん》七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序《ついで》に云ふ。青柳東里《あをやぎとうり》の続諸家人物誌には村卜総《そんぼくそう》の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林《かはらばやし》春塘は未だ考へない。
 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊
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