ざれば出来不申候もの也。」
「一、前年|蠣崎将監《かきざきしやうげん》殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所《びんしよ》も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」
「得意ざきへ物買に行ごとく、用事|計《ばかり》申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、無拠《よんどころなく》御頼申上候。これまた前世より之|業《ごふ》などと思召、御|辨《わきまへ》被下度奉願上候。」
「御内上様へ次《ついで》に宜奉願上候。敬白。七月廿二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様侍史。猶々妻も自私《わたくしより》宜申上候へと申托《まをしたくし》候。」
茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又|故《もと》の直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼《よ》る外に途が無かつたのである。
茶山は頼|杏坪《きやうへい》が江戸に往来しなくなつたり、倉成|竜渚《りゆうしよ》が死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものは※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]夫《さうふ》になつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。
その六十六
頼|杏坪《きやうへい》は此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしが通途《つうづ》の説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。
杏坪が江戸に往反《わうへん》しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行《こほりぶぎやう》にせられたのが此年の七月ださうだ
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