新町に家塾を開いた。思軒は茶山の手紙を以て此頃に書かれたものと判断してゐたのである。
茶山の此手紙を書いた目的をば、思軒が下《しも》の如くに解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪《きやうへい》が江戸に上れる次《ついで》、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞し、山陽の旧過を列挙し、己れが山陽に倦みたる所以《ゆゑん》を陳じて以て澹父の杏坪の計画に反対せむことを望みたるなり」と云ふのである。計画とは山陽の父春水等の計画を謂ふ。春水等は山陽の叔父《しゆくふ》杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山は既に山陽に倦んでゐて、澹父をして杏坪を阻《さまた》げしめむと欲するのだと云ふのである。
此伊沢澹父とは何人《なにひと》であるか。思軒はかう云つた。「澹父の何人なるやは未だ考へずと雖も、書中の言によりて推量するに、蓋《けだし》備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸《げいはんてい》には至密の関係ありし者なるべし」と云つた。
思軒の「頼山陽及其時代」が出てから十九年の後、大正二年に坂本|箕山《きざん》の「頼山陽」が出た。箕山は同一の茶山の手紙を引いて、手紙の宛名の人を伊沢蘭軒だと云つてゐる。わたくしは太華が買つたと云ふ茶山の手紙の行方を知らない。推するに、此手紙はどこかに存在してゐて、箕山さんもこれを見ることを得たのではなからうか。
わたくしは伊沢蘭軒の事蹟を書かうとするに当つて、最初に昔日《せきじつ》高橋太華の掘り出した古手紙の事を語つた。これは蘭軒の名が一時いかに深く埋没せられてゐたかを示さむがためである。
その二
わたくしの知る所を以てすれば、蘭軒の事蹟の今に至るまで記述を経たものは、坂本箕山さんの「藝備偉人伝」中の小伝と、頃日《このごろ》図書館雑誌に載せられた和田万吉さんの「集書家伊沢蘭軒翁略伝」との二つがあるのみである。
しかし既に此等の記述があるのに、わたくしが遅れて出て、新に蘭軒の伝を書かうとするには、わたくしは先づ白己の態度を極めなくてはならない。わたくしが今蘭軒を伝ふることの難きは、前《さき》に渋江抽斎を伝ふることの難かりし比では無い。抽斎と雖、人名辞書がこれを載せ、陸羯南《くが
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