ふ歌をさへ作つた。程の筆迹は今猶存してゐて、往々見ることがあるさうである。
 胡振、字は兆新、号は星池である。医にして書を善くした。江戸の人|秦星池《はたせいち》は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ。「星池秦其馨、書法遒逸、名声日興、旧嘗遊崎陽、私淑呉人胡兆新、遂能伝其訣、独喜使羊毫筆」と五山堂詩話に見えてゐる。山陽と陸如金《りくじよきん》と云ふものとの筆話に胡に言及し、「施薬市上」と云つてある。
 陸秋実の詩箋は、わたくしは一読過して鈔写するに及ばなかつた。
 江稼圃《こうかほ》、芸閣の兄弟は清商中善詩善画を以て聞えてゐたと云ふ。松田道夫さんの話に、蘭軒が筆話の序に、国自慢の詩を書して示すと、程であつたか江であつたか、「江戸つ子ちゆうつ腹」と連呼したと云ふことである。恐くは彼「西土休誇文物美、逸書多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はくはそれを見て伝聞の確なりや否やを知りたいものである。
 頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎暫停※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]。対君今日称奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水|惟完《ゐくわん》を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪|惟柔《ゐじう》を江戸に見たのである。
 蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留《えんりう》したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守中の出来事が、分明に八月十九日の事たるを徴すべきであるからである。
 既に蘭軒が八月十九日に未だ家に還らなかつたことを知れば、其父|信階《のぶしな》が留守中に死んだことも亦疑を容れない。
 蘭軒の父隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得ること六十四、法諡《はふし》して隆升軒興安信階居士と云つた。蘭軒は足掛二年の旅の間に、怙恃《こじ》併せ喪つたのである。
 信階の肖像は阿部家の画師|村片相覧《むらかたあうみ》の作る所で、今富士川游さんの手に帰してゐる。わたくしは良子刀自の蔵する所の摸本を見た。広い※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]
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