その三百三十

 柏軒門人中清川安策孫の事は既に記した。次に挙ぐべきは志村玄叔である。
 玄叔、名は良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]である。その天保九年に生れ、安政四年に柏軒の門に入つたことは上《かみ》に見えてゐる。文久三年柏軒に随つて京都に赴き、その病を得るに及んで、同行の塩田、踵《つ》いで至つた清川即当蒔の多峰と倶に看護に力を竭し、易簀《えきさく》の日に至るまで牀辺を離れなかつたことも亦同じである。
 頃日《このごろ》渋江保さんはわたくしのために志村氏を原宿におとづれ、柏軒在世の時の事を問うた。渋江氏は初見の挨拶をしたが、主人は手を揮《ふ》つて云つた。「いや。あなたは初対面のお客ではない。わたくし(良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])は柏軒先生の門人ではあつたが、受業の恩は却つてお父上抽斎先生に謝せなくてはならない。柏軒先生は講書の日を定めてゐても、病家の歴訪すべきものが多かつたので、日歿後に至つて帰り、講説は縦《たと》ひ強て諸生の求に応じても、大抵粗枝大葉に過ぎなかつた。時としては座に就いて巻《まき》を攤《ひら》かずに、今日は疲れてゐるから書物よりは酒にしようと云つて、酒肴を饗した。清川安策の如きは午過に来て待つてゐて、酒を飲んで空しく帰るのを憾《うらみ》とした。そこでわたくし共は柏軒先生の許を請うて、抽斎先生の講筵に列した。抽斎先生は毎月六度乃至九度の講義日を定めて置いて、決して休まなかつた。わたくし共は寒暑を問はず、午食後に中橋の塾を出て、徒歩して本所へ往つた。夏の日にはわたくし共は往々聴講中に眠を催した。すると抽斎先生は、大分諸君は倦んで来たやうだ、少し休んで茶でも喫《の》むが好いと云つて、茶菓を供した。少焉《しばらく》して、さあ、睡魔が降伏したら、もう少し遣らうと云つて講説した。酒を饗することは稀であつた。当時わたくし共は萱堂《けんだう》のお世話になり、あなたをも抱いたり負《おぶ》つたりしたことがある。抽斎先生の亡くなつた後も、二三年は本所のお宅をお尋したから、わたくしはあなたの四五歳の頃までの事を知つてゐる。萱堂は近頃如何です。」渋江氏は母山内氏の死を告げた。志村氏は嗟歎すること良《やゝ》久しかつた。
 志村氏は語を継いで云つた。「柏軒先生を除いて、わたくしの恩を承けたのは抽斎先生と枳園先生とである。実
前へ 次へ
全567ページ中502ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング