わたした。
 お豊さんはそれを受け取って、妹に「ここはこのままそっくりしておくのだよ」と言っておいて、桃の枝を持って勝手へ立った。
 ご新造はあとからついて来た。
 お豊さんは台所の棚《たな》から手桶《ておけ》をおろして、それを持ってそばの井戸端に出て、水を一釣瓶汲《ひとつるべく》み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにもかいがいしい。使命を含んで来たご新造は、これならば弟のよめにしても早速役に立つだろうと思って、微笑を禁じ得なかった。下駄を脱ぎすてて台所にあがったお豊さんは、壁に吊ってある竿の手拭いで手をふいている。そのそばへご新造が摩《す》り寄った。
「安井では仲平におよめを取ることになりました」劈頭《へきとう》に御新造は主題を道破《どうは》した。
「まあ、どこから」
「およめさんですか」
「ええ」
「そのおよめさんは」と言いさして、じっとお豊さんの顔を見つつ、「あなた」
 お豊さんは驚きあきれた顔をして黙っていたが、しばらくすると、その顔に笑《え》みがたたえられた。「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》でしょう」
「本当です。わたしそのお話をしに来ました。これからお母あさまに申し上げようと思っています」
 お豊さんは手拭いを放して、両手をだらりと垂《た》れて、ご新造と向き合って立った。顔からは笑みが消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」冷然として言い放った。

 お豊さんの拒絶があまり簡明に発表せられたので、長倉のご新造は話のあとを継ぐ余地を見いだすことが出来なかった。しかしこれほどの用事を帯びて来て、それを二人の娘の母親に話さずにも帰られぬと思って、直談判《じきだんぱん》をして失敗した顛末《てんまつ》を、川添のご新造にざっと言っておいて、ギヤマンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞《いとまご》いをした。
 川添のご新造は仲平|贔屓《びいき》だったので、ひどくこの縁談の不調を惜しんで、お豊にしっかり言って聞かせてみたいから、安井家へは当人の軽率な返事を打ち明けずにおいてくれと頼んだ。そこでお豊さんの返事をもって復命することだけは、一時見合わせようと、長倉のご新造が受け合ったが、どうもお豊さんが意を翻《ひるがえ》そうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお勧めにならぬように」と言い残して起って出た。
 長倉のご新造が川添の門を出て、道の二三丁も来たかと思うとき、あとから川添に使われている下男の音吉が駆けて来た。急に話したいことがあるから、ご苦労ながら引き返してもらいたいという口上を持って来たのである。
 長倉のご新造は意外の思いをした。どうもお豊さんがそう急に意を翻したとは信ぜられない。何の話であろうか。こう思いながら音吉と一しょに川添へ戻って来た。
「お帰りがけをわざわざお呼び戻しいたして済みません。実は存じ寄らぬことが出来まして」待ち構えていた川添のご新造が、戻って来た客の座に着かぬうちに言った。
「はい」長倉のご新造は女主人の顔をまもっている。
「あの仲平さんのご縁談のことでございますね。わたくしは願うてもないよい先だと存じますので、お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはりまいられぬと申します。そういたすとお佐代が姉にその話を聞きまして、わたくしのところへまいって、何か申しそうにいたして申さずにおりますのでございます。なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいかと申します。およめに往くということはどういうわけのものか、ろくにわからずに申すかと存じまして、いろいろ聞いてみましたが、あちらでもろうてさえ下さるなら自分は往きたいと、きっぱり申すのでございます。いかにも差出がましいことでございまして、あちらの思わくもいかがとは存じますが、とにかくあなたにご相談申し上げたいと存じまして」さも言いにくそうな口吻《くちぶり》である。
 長倉のご新造はいよいよ意外の思いをした。父はこの話をするとき、「お佐代は若過ぎる」と言った。また「あまり別品でなあ」とも言った。しかしお佐代さんを嫌《きら》っているのでないことは、平生からわかっている。多分父は吊合いを考えて、年がいっていて、器量の十人並みなお豊さんをと望んだのであろう。それに若くて美しいお佐代さんが来れば、不足はあるまい。それにしても控え目で無口なお佐代さんがよくそんなことを母親に言ったものだ。これはとにかく父にも弟にも話してみて、出来ることなら、お佐代さんの望み通りにしたいものだと、長倉のご新造は思案してこう言った。「まあ、そうでございますか。父はお豊さんをと申したのでございますが、わたくしがちょっと考えてみますに、お佐代さんでは悪いとは申さぬだろうと存じます。早速あちらへまいって申してみることにいたしましょう。でもあの内気《うちき》なお佐代さんが、よくあなたにおっしゃったものでございますね」
「それでございます。わたくしも本当にびっくりいたしました。子供の思っていることは何から何までわかっているように存じていましても、大違いでございます。お父うさまにお話し下さいますなら、当人を呼びまして、ここで一応聞いてみることにいたしましょう」こう言って母親は妹娘を呼んだ。
 お佐代はおそるおそる障子をあけてはいった。
 母親は言った。「あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のようなものでももらって下さることになったら、お前きっと往くのだね」
 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と言って、下げていた頭を一層低く下げた。

 長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲《そうしゅう》翁も意外だと思った。しかし一番意外だと思ったのは壻殿《むこどの》の仲平であった。それは皆|怪訝《かいが》するとともに喜んだ人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉《そね》んだ。そして口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播《でんぱ》して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉《そね》みの交じらぬただの怪訝であった。
 婚礼は長倉夫婦の媒妁《ばいしゃく》で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭《まゆ》を破って出た蛾《が》のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢《おおぜい》の若い書生たちの出入りする家で、天晴《あっぱ》れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
 十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵《しゅくえん》に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。

 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女|須磨子《すまこ》が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥《おび》に遷《うつ》されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂《しんとくどう》の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削《ゆげ》という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂《かも》に代地をもらった。
 仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨《くうけい》を守ったはじめである。
 滄洲翁は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った翌年である。
 仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌の斎長《さいちょう》になった。ついで外桜田の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭《おおばんしょばんがしら》という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所《いどころ》がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人に教える決心をしていたのである。
 このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰《しおのやとういん》のような立派な人が出来た。二人一しょに散歩をすると、男ぶりはどちらも悪くても、とにかく背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲腰に横たわる、安井三尺草|頭《かしら》を埋む」などと冷やかされた。
 江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸《しもやしき》にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院《こんじいん》にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があってから、はじめて五番町の売居《うりすえ》を二十九枚で買った。
 お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していたときである。いわゆる三|計塾《けいじゅく》で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあって、階上が斑竹山房《はんちくさんぼう》の※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]額《へんがく》を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字|仮屋《かりや》の虎斑竹《こはんちく》を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女|登梅子《とめこ》と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾にやって来た。
 仲平夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊《ままた》きをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛《ひゅうがなま》りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
 お佐代さんは形《なり》ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤《おもかげ》はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦《おびそとうら》の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士《かち》になった男である。お佐代さんが茶を酌《く》んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪《こうかい》なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりますか」
「さよう。妻で」恬然《てんぜん》として仲平は答えた。
「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」
「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」
「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」
「なぜ」
「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところを見ますと」
 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋《ざるご》の相手をさせて帰した。

 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附《うしごめみつけ》外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻《まわ》り縁《えん》とがついていて、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家《はくしょうか》でありながら、蔵書癖《ぞうしょへき》はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことはないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧《み》て、書き抜いては返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであった。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。
 そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方《おしあいかた》という役を命ぜられたが、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際目
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