安井夫人
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仲平《ちゅうへい》さんは
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|郷《ごう》に伝えられている
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがとうあん》
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「仲平《ちゅうへい》さんはえらくなりなさるだろう」という評判と同時に、「仲平さんは不男《ぶおとこ》だ」という蔭言《かげこと》が、清武《きよたけ》一|郷《ごう》に伝えられている。
仲平の父は日向国《ひゅうがのくに》宮崎郡清武村に二|段《たん》八|畝《せ》ほどの宅地があって、そこに三棟の家を建てて住んでいる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持っていて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中《なか》一年おいて、四十のとき帰国してから、だんだん飫肥《おび》藩で任用せられるようになったので、今では田畑の大部分を小作人に作らせることにしている。
仲平は二男である。兄|文治《ぶんじ》が九つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈《せたけ》が伸びてからは、二人とも毎朝書物を懐中して畑打《はたう》ちに出た。そしてよその人が煙草《たばこ》休みをする間、二人は読書に耽《ふけ》った。
父がはじめて藩の教授にせられたころのことである。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打ちに通うと、道で行き逢《あ》う人が、皆言い合わせたように二人を見較べて、連れがあれば連れに何事をかささやいた。背の高い、色の白い、目鼻立ちの立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合《ふつりあ》いな一対に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡《ほうそう》が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕《おおあばた》になって、あまつさえ右の目がつぶれた。父も小さいとき疱瘡をして片目になっているのに、また仲平が同じ片羽《かたわ》になったのを思えば、「偶然」というものも残酷なものだと言うほかない。
仲平は兄と一しょに歩くのをつらく思った。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足さきに出、晩は少し居残って為事《しごと》をして、一足遅れて帰ってみた。しかし行き逢う人が自分の方を見て、連れとささやくことはやまなかった。そればかりではない。兄と一しょに歩くときよりも、行き逢う人の態度はよほど不遠慮になって、ささやく声も常より高く、中には声をかけるものさえある。
「見い。きょうは猿がひとりで行くぜ」
「猿が本を読むから妙だ」
「なに。猿の方が猿引きよりはよく読むそうな」
「お猿さん。きょうは猿引きはどうしましたな」
交通の狭い土地で、行き逢う人は大抵識り合った中であった。仲平はひとりで歩いてみて、二つの発明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護《ひご》のもとに立っていながら、それを悟らなかったということである。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名《あだな》がついていて、醜い自分が猿と言われると同時に、兄までが猿引きと言われているということである。仲平はこの発明を胸に蔵《おさ》めて、誰にも話さなかったが、その後は強《し》いて兄と離れ離れに田畑へ往反《おうへん》しようとはしなかった。
仲平にさきだって、体の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹《しのざきしょうちく》の塾に通っていたときに死んだのである。仲平は二十一の春、金子《きんす》十両を父の手から受け取って清武村を立った。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に着いて、長屋の一間を借りて自炊をしていた。倹約のために大豆を塩と醤油とで煮ておいて、それを飯の菜にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆」と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気づかって、酒を飲むことを勧めると、仲平は素直に聴き納《い》れて、毎日一合ずつ酒を買った。そして晩になると、その一合入りの徳利を紙撚《こより》で縛って、行燈の火の上に吊るしておく。そして燈火《ともしび》に向って、篠崎の塾から借りて来た本を読んでいるうちに、半夜《はんや》人定まったころ、燈火で尻をあぶられた徳利の口から、蓬々《ほうほう》として蒸気が立ちのぼって来る。仲平は巻《まき》をおいて、徳利の酒をうまそうに飲んで寝るのであった。中《なか》一年おいて、二十三になったとき、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣っていても、才気の鋭い若者であったのに、とかく病気で、とうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃音《ふいん》を得て、すぐに大阪を立って帰った。
その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがとうあん》の門下に籍をおいて、昌平黌《しょうへいこう》に入った。後世の註疏《ちゅうそ》によらずに、ただちに経義を窮《きわ》めようとする仲平がためには、古賀より松崎慊堂《まつざきこうどう》の方が懐かしかったが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかったのである。痘痕《あばた》があって、片目で、背の低い田舎書生は、ここでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかった。それでも仲平は無頓着に黙り込んで、独り読書に耽《ふけ》っていた。坐右《ざゆう》の柱に半折《はんせつ》に何やら書いて貼《は》ってあるのを、からかいに来た友達が読んでみると、「今は音《ね》を忍《しのぶ》が岡《おか》の時鳥《ほととぎす》いつか雲井のよそに名のらむ」と書いてあった。「や、えらい抱負《ほうふ》じゃぞ」と、友達は笑って去ったが、腹の中ではやや気味悪くも思った。これは十九のとき漢学に全力を傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残《なごり》で、わざと流儀違いの和歌の真似をして、同窓の揶揄《やゆ》に酬《むく》いたのである。
仲平はまだ江戸にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国せられるとき、供をして帰った。
今年の正月から清武村|字《あざ》中野に藩の学問所が立つことになって、工事の最中である。それが落成すると、六十一になる父|滄洲翁《そうしゅうおう》と、去年江戸から藩主の供をして帰った、二十九になる仲平さんとが、父子ともに講壇に立つはずである。そのとき滄洲翁が息子によめを取ろうと言い出した。しかしこれは決して容易な問題ではない。
江戸がえり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだろう」と評判する郷里の人たちも、痘痕《あばた》があって、片目で、背の低い男ぶりを見ては、「仲平さんは不男《ぶおとこ》だ」と蔭言《かげこと》を言わずにはおかぬからである。
滄洲翁は江戸までも修業に出た苦労人である。倅《せがれ》仲平が学問修行も一通り出来て、来年は三十になろうという年になったので、ぜひよめを取ってやりたいとは思うが、その選択のむずかしいことには十分気がついている。
背こそ仲平ほど低くないが、自分も痘痕があり、片目であった翁は、異性に対する苦い経験を嘗《な》めている。識らぬ少女と見合いをして縁談を取りきめようなどということは自分にも不可能であったから、自分と同じ欠陥があって、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れている。仲平のよめは早くから気心を識り合った娘の中から選び出すほかない。翁は自分の経験からこんなことをも考えている。それは若くて美しいと思われた人も、しばらく交際していて、智慧《ちえ》の足らぬのが暴露してみると、その美貌《びぼう》はいつか忘れられてしまう。また三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、昔美しかった人とは思われぬようになる。これとは反対に、顔貌《かおかたち》には疵《きず》があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳をきらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目《ひいきめ》ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい。翁はざっとこう考えた。
翁は五節句や年忌に、互いに顔を見合う親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思い浮べてみた。一番|華《はな》やかで人の目につくのは、十九になる八重という娘で、これは父が定府《じょうふ》を勤めていて、江戸の女を妻に持って生ませたのである。江戸風の化粧をして、江戸|詞《ことば》をつかって、母に踊りをしこまれている。これはもらおうとしたところで来そうにもなく、また好ましくもない。形が地味《じみ》で、心の気高い、本も少しは読むという娘はないかと思ってみても、あいにくそういう向きの女子は一人もない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである。
あちこち迷った末に、翁の選択はとうとう手近い川添《かわぞえ》の娘に落ちた。川添家は同じ清武村の大字《おおあざ》今泉、小字《こあざ》岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の従妹《いとこ》が二人ある。妹娘の佐代《さよ》は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量《きりょう》よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼んでいるそうである。どうも仲平とは不吊合いなように思われる。姉娘の豊《とよ》なら、もう二十《はたち》で、遅く取るよめとしては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではない。豊の器量は十人並みである。性質にはこれといって立ち優《まさ》ったところはないが、女にめずらしく快活で、心に思うままを口に出して言う。その思うままがいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面なしで困る」と言うが、それが翁の気に入っている。
翁はこう思い定めたが、さてこの話を持ち込む手続きに窮した。いつも翁に何か言われると、謹んで承るという風になっている少女らに、直接に言うことはもちろん出来ない。外舅外姑《しゅうとしゅうとめ》が亡くなってからは、川添の家には卑属しかいないから、翁がうかと言い出しては、先方で当惑するかも知れない。他人同士では、こういう話を持ち出して、それが不調に終ったあとは、少くもしばらくの間交際がこれまで通りに行かぬことが多い。親戚間であってみれば、その辺に一層心を用いなくてはならない。
ここに仲平の姉で、長倉《ながくら》のご新造《しんぞ》と言われている人がある。翁はこれに意中を打ち明けた。「亡くなった兄いさんのおよめになら、一も二もなく来たのでございましょうが」と言いかけて、ご新造は少しためらった。ご新造はそういう方角からはお豊さんを見ていなかったのである。しかしお父うさまに頼まれた上で考えてみれば、ほかに弟のよめに相応した娘も思い当らず、またお豊さんが不承知を言うにきまっているとも思われぬので、ご新造はとうとう使者の役目を引き受けた。
川添の家では雛祭《ひなまつり》の支度をしていた。奥の間《ま》へいろいろな書附けをした箱を一ぱい出し散らかして、その中からお豊さんが、内裏様《だいりさま》やら五人囃《ごにんばや》しやら、一つびとつ取り出して、綿や吉野紙を除《の》けて置き並べていると、妹のお佐代さんがちょいちょい手を出す。「いいからわたしに任せておおき」と、お豊さんは妹を叱《しか》っていた。
そこの障子をあけて、長倉のご新造が顔を出した。手にはみやげに切らせて来た緋桃《ひもも》の枝を持っている。「まあ、お忙しい最中でございますね」
お豊さんは尉姥《じょううば》の人形を出して、箒《ほうき》と熊手《くまで》とを人形の手に挿《さ》していたが、その手を停めて桃の花を見た。「おうちの桃はもうそんなに咲きましたか。こちらのはまだ莟《つぼみ》がずっと小そうございます」
「出かけに急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて来ました。たくさんお活《い》けになるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ」こう言ってご新造は桃の枝を
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