いただろう。そして瞑目《めいもく》するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

 お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。また二箇月目に徳川将軍に謁見《えっけん》して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられた。仲平が直参《じきさん》になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、高橋|圭三郎《けいざぶろう》という壻《むこ》を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のちに須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙《むつはなわ》六万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入《こぶしんい》りをした。
 住いは六十五のとき下谷徒士町《したやかちまち》に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端《ほりばた》の家を買って移った。策士|雲井龍雄《くもいたつお》と月見をした海嶽楼《かいがくろう》は、この家の二階である。

 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中の騒がしい最中に、王子在|領家村《りょうけむら》の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須磨子は三年前に飫肥《おび》へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻|淑子《よしこ》と、前年八月に淑子の生んだ千菊《せんぎく》とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総《しもうさ》にいた夫には逢わずに死んだのである。
 仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈《さでんしゅうしゃく》を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七十三のときまた土手《どて》三番町に移った。
 仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折《ようせつ》したあとは小太郎の二男三郎が立てた。
[#地から1字上げ]大正三年四月



底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:日隈美代子
1998年8月6日公開
2006年5月17日修正
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