になって、手桶《ておけ》を提《さ》げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕を蹴《け》った。小姓は跳《は》ね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を大袈裟《おおげさ》に切った。
 小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細《しさい》を話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、肌《はだ》を脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま館《やかた》へ出て忠利に申し上げた。忠利は「尤《もっと》ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
 小姓は箙《えびら》を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。

 寛永十九年四月二十一日は麦秋《むぎあき》によくある薄曇りの日であった。
 阿部一
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