って、安座《あんざ》して肌《はだ》をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手《さかて》に持って、「お鷹匠衆《たかじょうしゅう》はどうなさりましたな、お犬牽《いぬひ》きは只今《ただいま》参りますぞ」と高声《たかごえ》に言って、一声|快《こころ》よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後《うしろ》から首を打った。
 五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々|触組《ふれぐみ》で奉公していた。

 忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門|通信《みちのぶ》というものがあった。初めは明石氏《あかしうじ》で、幼名を猪之助《いのすけ》といった。はやくから忠利の側近《そばちか》く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人も
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