ずにいた人間として極印《ごくいん》を打たれたのは、かえすがえすも口惜しい。自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。それほどの辱《はじ》を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことである。しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。殿様に棄てられたのは忍ぶことが出来ない。島原で城に乗り入ろうとしたとき、御先代がお呼び止めなされた。それはお馬廻りのものがわざと先手《さきて》に加わるのをお止めなされたのである。このたび御当主の怪我をするなとおっしゃるのは、それとは違う。惜しい命をいたわれとおっしゃるのである。それがなんのありがたかろう。古い創《きず》の上を新たに鞭《むち》うたれるようなものである。ただ一刻も早く死にたい。死んですすがれる汚れではないが、死にたい。犬死でもよいから、死にたい。
数馬はこう思うと、矢も楯《たて》もたまらない。そこで妻子には阿部の討手を仰せつけられたとだけ、手短《てみじか》に言い聞かせて、一人ひたすら支度を急いだ。殉死した人たちは皆|安堵《あんど》して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲《く》み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房《にょうぼう》は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。
あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題《さかやき》を剃《そ》って、髪には忠利に拝領した名香|初音《はつね》を焚《た》き込めた。白無垢《しろむく》に白襷《しろだすき》、白鉢巻《しろはちまき》をして、肩に合印《あいじるし》の角取紙《すみとりがみ》をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛《まさもり》で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念《かたみ》である。それに初陣《ういじん》の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。
手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋《わらじ》の緒《お》を男結《おとこむす》びにして、余った緒を小刀で切って捨てた。
阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国《おうみのくに》和田に住んだ和田|但馬守《たじまのかみ》の裔《すえ》である。初め蒲生賢秀《がもうかたひで》にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎|忠隆《ただたか》の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道|休無《きゅうむ》となって流浪したとき、高野山《こうやさん》や京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭《ばんがしら》にした。知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉《かど》で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭《そばものがしら》になっていたのである。権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前|長船《おさふね》の刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。
竹内数馬の手に島徳右衛門がいるように、高見権右衛門は一人の小姓を連れている。阿部一族のことのあった二三年前の夏の日に、この小姓は非番で部屋に昼寝をしていた。そこへ相役の一人が供先から帰って真裸《まはだか》になって、手桶《ておけ》を提《さ》げて井戸へ水を汲みに行きかけたが、ふとこの小姓の寝ているのを見て、「おれがお供から帰ったに、水も汲んでくれずに寝ておるかい」と言いざまに枕を蹴《け》った。小姓は跳《は》ね起きた。
「なるほど。目がさめておったら、水も汲んでやろう。じゃが枕を足蹴にするということがあるか。このままには済まんぞ」こう言って抜打ちに相役を大袈裟《おおげさ》に切った。
小姓は静かに相役の胸の上にまたがって止めを刺して、乙名の小屋へ行って仔細《しさい》を話した。「即座に死ぬるはずでござりましたが、ご不審もあろうかと存じまして」と、肌《はだ》を脱いで切腹しようとした。乙名が「まず待て」と言って権右衛門に告げた。権右衛門はまだ役所から下がって、衣服も改めずにいたので、そのまま館《やかた》へ出て忠利に申し上げた。忠利は「尤《もっと》ものことじゃ。切腹にはおよばぬ」と言った。このときから小姓は権右衛門に命を捧げて奉公しているのである。
小姓は箙《えびら》を負い半弓を取って、主のかたわらに引き添った。
寛永十九年四月二十一日は麦秋《むぎあき》によくある薄曇りの日であった。
阿部一
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