く》はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午《ひる》になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形《かた》ばかりではあるが、一家《いっけ》四人のものがふだんのように膳《ぜん》に向かって、午の食事をした。
 長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所《ぼだいしょ》東光院へ腹を切りに往った。

 長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった。いずれも忠利の深く信頼していた侍どもである。だから忠利の心では、この人々を子息|光尚《みつひさ》の保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻《ざんこく》だとは十分感じていた。しかし彼ら一人一人に「許す」という一言を、身を割《さ》くように思いながら与えたのは、勢いやむことを得なかったのである。
 自分の親しく使っていた彼らが、命を惜しまぬものであるとは、忠利は信じている。したがって殉死を苦痛とせぬことも知っている。これに反してもし自分が殉死を許さずにおいて、彼らが生きながらえていたら、どうであろうか。家中《かちゅう》一同は彼らを死ぬべきときに死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者《ひきょうもの》としてともに歯《よわい》せぬであろう。それだけならば、彼らもあるいは忍んで命を光尚に捧げるときの来るのを待つかも知れない。しかしその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使っていたのだと言うものがあったら、それは彼らの忍び得ぬことであろう。彼らはどんなにか口惜しい思いをするであろう。こう思ってみると、忠利は「許す」と言わずにはいられない。そこで病苦にも増したせつない思いをしながら、忠利は「許す」と言ったのである。
 殉死を許した家臣の数が十八人になったとき、五十余年の久しい間治乱のうちに身を処して、人情|世故《せいこ》にあくまで通じていた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とについて考えた。生《しょう》あるものは必ず滅する。老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子《ちゃくし》光尚の周囲にいる少壮者《わかもの》どもから見れば、自分の任用している老成人《としより》らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨《うら》みをも買っていよう。少くも娼嫉《そねみ》の的になっているには違いない。そうしてみれば、強《し》いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉《いしゃ》を得たような心持ちになった。
 殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門|直次《なおつぐ》、大塚喜兵衛|種次《たねつぐ》、内藤長十郎|元続《もとつぐ》、太田小十郎正信、原田十次郎|之直《ゆきなお》、宗像《むなかた》加兵衛|景定《かげさだ》、同|吉太夫《きちだゆう》景好《かげよし》、橋谷市蔵|重次《しげつぐ》、井原十三郎|吉正《よしまさ》、田中意徳、本庄喜助|重正《しげまさ》、伊藤太左衛門|方高《まさたか》、右田|因幡統安《いなばむねやす》、野田喜兵衛|重綱《しげつな》、津崎五助|長季《ながすえ》、小林理右衛門|行秀《ゆきひで》、林与左衛門|正定《まささだ》、宮永勝左衛門|宗佑《むねすけ》の人々である。

 寺本が先祖は尾張国《おわりのくに》寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子|内膳正《ないぜんのしょう》は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐《うえもんのすけ》、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤|嘉明《よしあき》に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪|籠城《ろうじょう》のとき、後藤|基次《もとつぐ》の下で働いたことがある。細川家に召《め》し抱《かか》えられてから、千石取って、鉄砲五十|挺《ちょう》の頭《かしら》になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本|猪左衛門《いざえもん》が介錯《かいしゃく》した。大塚は百五十石取りの横目役《よこめやく》である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衛門であった。内藤がことは前に言った。太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広が封《ほう》を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪《るろ
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