初のようにしずかにさすり始めた。このとき長十郎の心頭には老母と妻とのことが浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受けるということを考えて、それで己《おのれ》は家族を安穏な地位において、安んじて死ぬることが出来ると思った。それと同時に長十郎の顔は晴れ晴れした気色になった。

 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞《いとまご》いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅《せがれ》が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
 母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに起《た》って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗《きれい》に撫《な》でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目《まじめ》な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁《ふち》が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
 四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地《ここち》よげに杯を重ねた。
 しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾《いびき》をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
 家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩《うまや》の方からも笑い声なぞは聞こえない。
 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵《つりしのぶ》が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈《たけ》の高い石の頂《いただき》を掘りくぼめた手水鉢《ちょうずばち》がある。その上に伏せてある捲物《まきもの》の柄杓《ひしゃく》に、やんまが一|疋《ぴき》止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
 一時《ひととき》立つ。二時《ふたとき》立つ。もう午《ひる》を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑《しゅうとめ》が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
 そのときかねて介錯《かいしゃく》を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに起《た》って夫を起しに往った。
 夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞《ことば》をかけかねていたのである。
 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
 長十郎は目をさまさない。
 女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言って臂《ひじ》を伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは午《ひる》になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬《ちゃづけ》でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母《か》あさまにも申し上げてくれ」
 武士はいざというときには飽食《ほうしょ
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