生に平伏した。働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。
「十太夫、そちの働きはどうじゃった」
「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は大兵《だいひょう》の臆病者で、阿部が屋敷の外をうろついていて、引上げの前に小屋に火をかけたとき、やっとおずおずはいったのである。最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者|新免武蔵《しんめんむさし》が見て、「冥加至極《みょうがしごく》のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいた袴《はかま》の紐《ひも》を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうである。
 光尚は座を起つとき言った。「皆|出精《しゅっせい》であったぞ。帰って休息いたせ」

 竹内数馬の幼い娘には養子をさせて家督相続を許されたが、この家はのちに絶えた。高見権右衛門は三百石、千場作兵衛、野村庄兵衛は各《かく》五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは米田監物《こめだけんもつ》が承って組頭|谷内蔵之允《たにくらのすけ》を使者にやって、賞詞《ほめことば》があった。親戚朋友《しんせきほうゆう》がよろこびを言いに来ると、又七郎は笑って、「元亀《げんき》天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と言った。二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒《い》えて光尚に拝謁《はいえつ》した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城《ましき》小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山《やぶやま》である。「藪山もつかわそうか」と、光尚が言わせた。又七郎はそれを辞退した。竹は平日もご用に立つ。戦争でもあると、竹束がたくさんいる。それを私《わたくし》に拝領しては気が済まぬというのである。そこで藪山は永代御預《えいたいおあず》けということになった。
 畑十太夫は追放せられた。竹内数馬の兄八兵衛は私に討手に加わりながら、弟の討死の場所に居合わせなかったので、閉門を仰せつけられた。また馬廻りの子で近習を勤めていた某《それがし》は、阿部の屋敷に近く住まっていたので、「火の用心をいたせ」と言
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