》が召使っていた。仲津で狼藉者《ろうぜきもの》を取り押さえて、五人扶持十五石の切米取《きりまいと》りにせられた。本庄を名のったのもそのときからである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役《おくおなんどやく》を勤めた切米取りである。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多《かわきた》八助がした。右田は大伴家《おおともけ》の浪人で、忠利に知行百石で召し抱えられた。四月二十七日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衛が介錯した。野田は天草の家老野田|美濃《みの》の倅《せがれ》で、切米取りに召し出された。四月二十六日に源覚寺で切腹した。介錯は恵良《えら》半衛門がした。津崎のことは別に書く。小林は二人扶持十石の切米取りである。切腹のとき、高野勘右衛門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であったのを、忠利が十人扶持十五石に召し出して、花畑の館《やかた》の庭方《にわかた》にした。四月二十六日に仏巌寺《ぶつがんじ》で切腹した。介錯は仲光《なかみつ》半助がした。宮永は二人扶持十石の台所役人で、先代に殉死を願った最初の男であった。四月二十六日に浄照寺《じょうしょうじ》で切腹した。介錯は吉村|嘉右衛門《かえもん》がした。この人々の中にはそれぞれの家の菩提所《ぼだいしょ》に葬られたのもあるが、また高麗門外《こうらいもんがい》の山中にある霊屋《おたまや》のそばに葬られたのもある。
切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。
五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽《いぬひ》きである。いつも鷹狩の供をして野方《のかた》で忠利の気に入っていた。主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。「ほかの方々は高禄《こうろく》を賜わって、栄耀《えよう》をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉《ほま》れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。
五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽《ひ》いてお供をした犬を連れて、追廻田畑《おいまわしたはた》の高琳寺《こうりんじ》へ出かけた。女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。
津崎の家では往生
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