しより》らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思うが、その奉公を光尚にするものは、もう幾人も出来ていて、手ぐすね引いて待っているかも知れない。自分の任用したものは、年来それぞれの職分を尽くして来るうちに、人の怨《うら》みをも買っていよう。少くも娼嫉《そねみ》の的になっているには違いない。そうしてみれば、強《し》いて彼らにながらえていろというのは、通達した考えではないかも知れない。殉死を許してやったのは慈悲であったかも知れない。こう思って忠利は多少の慰藉《いしゃ》を得たような心持ちになった。
 殉死を願って許された十八人は寺本八左衛門|直次《なおつぐ》、大塚喜兵衛|種次《たねつぐ》、内藤長十郎|元続《もとつぐ》、太田小十郎正信、原田十次郎|之直《ゆきなお》、宗像《むなかた》加兵衛|景定《かげさだ》、同|吉太夫《きちだゆう》景好《かげよし》、橋谷市蔵|重次《しげつぐ》、井原十三郎|吉正《よしまさ》、田中意徳、本庄喜助|重正《しげまさ》、伊藤太左衛門|方高《まさたか》、右田|因幡統安《いなばむねやす》、野田喜兵衛|重綱《しげつな》、津崎五助|長季《ながすえ》、小林理右衛門|行秀《ゆきひで》、林与左衛門|正定《まささだ》、宮永勝左衛門|宗佑《むねすけ》の人々である。

 寺本が先祖は尾張国《おわりのくに》寺本に住んでいた寺本太郎というものであった。太郎の子|内膳正《ないぜんのしょう》は今川家に仕えた。内膳正の子が左兵衛、左兵衛の子が右衛門佐《うえもんのすけ》、右衛門佐の子が与左衛門で、与左衛門は朝鮮征伐のとき、加藤|嘉明《よしあき》に属して功があった。与左衛門の子が八左衛門で、大阪|籠城《ろうじょう》のとき、後藤|基次《もとつぐ》の下で働いたことがある。細川家に召《め》し抱《かか》えられてから、千石取って、鉄砲五十|挺《ちょう》の頭《かしら》になっていた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤本|猪左衛門《いざえもん》が介錯《かいしゃく》した。大塚は百五十石取りの横目役《よこめやく》である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衛門であった。内藤がことは前に言った。太田は祖父伝左衛門が加藤清正に仕えていた。忠広が封《ほう》を除かれたとき、伝左衛門とその子の源左衛門とが流浪《るろ
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