するにしても、昔の人のしたやうな事が、お前方に出来るか、どうだか、それはちよいと分からないな。」
「驚いた。分かり切つてゐらあ。色事をするのはいつだつて同じ事ぢやないか。」
「さう思ふかい。所が物が本当に分かつてゐなくちやあ駄目だ。あつちのな、あの山の向うに、Senzamani と云ふ一族が住まつてゐる。今の主人の祖父《ぢ》いさんのカルロの遣つた事を聞いて見ると好い。お前もどうせ女房を持つのだから、あれを聞いて置いたら、ためになるだらう。」
「お前さんが知つてゐるのに、何も知らない人に聞きに往かなくても好いぢやないか。」
 目には見えぬに、どこかを夜の鳥が一羽飛んで通つた。誰かゞ乾いた額を手拭でふいたやうな、一種異様な音がしたのである。
 地の上の暗黒が次第に濃く、温《あたゝか》に、しめつぽくなつて来た。天は次第に高くなつた。そして天の川の銀色の霧の中にある星は次第に明るくなつた。
「昔はもつと女を大切にしたものだ」と、漁師が云つた。
「さうかね。そんな事はわたしは知らなかつた。」
「それに戦争が度々あつたものだ。」
「そこで後家が大勢出来たと云ふのかね。」
「いや。そこで兵隊が遣つて来る。海賊が遣つて来る。ナポリには五年目位に新しい政府が立つ。女がゐると、錠前を卸した所に隠して置いたものだ。」
「ふん。今だつてさうして置く方が好いかも知れないね。」
「まあ、鶏かなんかを盗むやうに、女を盗んだものだ。」
「女は鶏よりか狐に似てゐるのだが。」
 漁師は黙つてしまつた。そして煙草に火を附けた。附木の火がぱつと燃え立つて、黒い曲つた鼻を照らした。間もなく甘みのある烟の白い一団が、動揺の無い空気の中に漂つた。
「それからどうしたのだね」と、ねむげな声で兵卒が聞いた。
 海は金粉を蒔いたやうになつてゐる。この殆ど注意を惹かぬ程の天の反影があるので、暗黒と沈黙とに支配せられてゐる寂寥の境に、些《ちと》ばかりの活動が生じて、其境に透明な、きらめきのある光彩が賦与せられてゐる。譬へば海の底から、燐光を放つ、幾千の睛《め》が窺つてゐるやうである。
 不機嫌になつて黙つてしまつた漁師に、「おい、わたしは聞いてゐるのだよ」と、兵卒が催促した。
 漁師は中音で、ゆつくりと話をし出した。人の落ち着いて傾聴しなくてはならぬやうな話振である。
「百年程前の事だつた。今あの黒い樅の木が立つてゐる山
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