優しく抱き寄せて、額に手を掛けて仰向かせて、目と目をぢつと見合せる。それから黙つて長い接吻をする。その接吻を受ける時、女は日によつて自分の霊が火のやうに燃え立つと思つたり、又雪のやうに解けると思つたりする。
 或る時はクサンチスがこんな事を言ふ。「なんだかかうしてお前さんのお言ひの事を聴いてゐると、わたしは昔から、お前さんとばかり暮してゐたやうな心持がしますわ。どうもこの生活と違つた、別な生活はわたしに想像が出来なくなつてしまひましたの。」二人は二度目に逢つてからは、お前さんだのお前だのと言ひ合つてゐるのである。
「お前は永遠なるもの、完全なるものの閾《しきゐ》を跨いでゐるのだよ。」
「えゝ。全くさうなの。」こんな問答をする。
 実は女はさういふ詞《ことば》が分かるのではない。併し「完全なるもの」なんといふ事は深秘であるから、青年に分かつてゐるだけは、女にも分かつてゐると云つても好からう。女は折々「永遠なるもの」「完全なるもの」といふやうな事を繰返す。そして其詞を声に出して言ふと同時に、曾てそれを聴いた時に感じた不思議な感じ、今言ひあらはさうとする不思議な感じが胸に満ちるのである。どうかすると外の人の前で、此詞を言ひ出す事がある。例之《たとへ》ば公爵に向いてそんな事を言ふ。公爵は軽い嘲《あざけり》の表情を以て、唇に皺を寄せる。そして心の底に不快の萌《きざ》すのを、強ひて自分でも認めないやうにしてゐる。
 或る晩には青年の頭が女に身の上話をして聞かせる。奮闘や失望の多い生涯である。幾度《いくたび》か挫折して飽までも屈せず、力を量《はか》らずに、美に向つて進む生涯である。その話の内に、余り悲しい出来事が出て来ると、青年は欷歔《すゝりなき》をして跡を話す事が出来なくなる。そんな時には、青年は小さい踊子をぴつたり引き寄せて、自分の頭を女の開いた胸に当てて、子供らしい声で、不思議な詞を囁く。「お前は可憐な、光明《くわうめい》ある姉妹の霊だね。神々しい容器だね。無窮の歓楽だね。小さいスフインクスだね。」こんな詞である。
 こんな詞を聴いても、女には少しも分からない。併しそれを囁く声の優しい響を、女は楽しんで聞いてゐる。兎に角この詞は、公爵なんぞの詞より、意味が深いに違ひないと思つてゐるのである。
 時間は黄金《こがね》の沓《くつ》を穿いて逃げる。
 窓掛の間へ月が滑り出て、銀色
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