に似る現象に就いて』の書を読めと勧告することは出来申すまじく、又其人々の前に跪きて、我妻の貞操を保ち居ることを承認しくれられたしと一々頼む訳にも参り兼ね候。事実は彼リムビヨツクの著書に有ると殆んど同一にて、妻は去る八月妹を連れて動物園に参りしこと有之候。其頃動物園には黒人仲間滞留し居候。小生は其数日前実父の病気見舞の為に田舎に帰り候。不幸にして実父は数週の後死亡致し候。其留守に妻は一人にて暮し居り、小生が帰宅せし折は妻は床に就き居候。妻は小生を待つこと余りに久しくなりて健康を害せしものなること小生の確信する所に候。小生の不在は僅かに三日間なりしに、健康を害するまで待ちくれしにても、妻の小生を愛しくれ候ことは察せられ候。小生は直ちに妻の臥所の縁《へり》に腰を掛け、此三日間を如何に暮し居りしかと尋ね候。小生の此問を反復するを須《ま》たずして、妻は何事も包み隠すことなく精《くは》しく話しくれ候。事実の真相を明かにする為に、其話を洩さず次に記し置き候。月曜日には妻は午前宅に居り、午後フリツチイを連れて買物の為め町へ出で候。フリツチイは妻の妹にて真《まこと》の名はフリイデリイケに候。フリツチイは目下ブレエメンの港なる大商店に奉公し居る男と結婚の約束を為し居り、遠からず彼地に赴く筈に候。火曜日には雨の為に妻は終日在宅せし由に候。此日には小生の参り居りし田舎も雨にて困りしことを記憶致し候。次は水曜日に候。此日妻はフリツチイを連れて夕方動物園に参り候。動物園には其頃黒人参り居り候。此黒人をば後九月になりて小生も一見致し候。友人ルウドルフ・リツトネル夫婦、小生を誘ひて日曜日の晩に参り候。妻は水曜日の事を思ひ、其時同行を拒み候。妻の話に依れば、彼水曜日の晩只一人にて黒人の中に取残されし時程恐ろしかりし事は生涯無かりし由申候。何故一人にて取残されしかと云ふに、そはフリツチイが忽然《こつぜん》隠れ去りし故に候。此手紙は最後の手紙なればフリツチイの事を悪様《あしざま》に記さむは不本意に候へども、此事実は記さざるを得ず候。フリツチイに対して此処にてしかと申残したき事有之候。若し今の儘にて行を改めざる時は、ブレエメンに在る許嫁《いひなづけ》の良人は定めて不幸に感ずるならむと存じ候。彼日フリツチイは某君《なにがしくん》と小生の妻を捨ておきて、何《いづ》れへか立去りし由に候。某君は小生の熟知し居る人
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