ず、明日リムビヨツクの著書を君に贈りて君の疑を晴すべしと申候。只今目前に開き居るは此ドクトル、ブラウネル氏の貸しくれし書籍に候。此書籍をドクトルに返却することを遺族に申残し候。其他には申残すべき事も無之候。遺言状は余程以前に認めあり、今日に至りて其内容を変更する必要無之候。何故と云ふに、遺族たる妻は貞操を守りし女にして、子は我が嫡出の子なる故に候。其子の皮膚の色の如何にも異様なるは十分説明すべき理由あることに候。それを異様に解釈するは、世の人の無教育なると悪意あるとの致す所に外ならず、若し世の人にして智慧あり悪意なき者ならば、事実の真相は一般に承認せらるべく、小生も自殺するを要せざることと相成る可く候。不幸にして世の人皆愚にして根性悪しき故、誰も小生の言葉に耳を借すことなく、申合せたる如く嘲笑致し居候。妻の伯父グスタアフ・レンゲルホオヘル氏は小生の平素敬愛し居る人に候へども、初めて我子を見せし時、異様なる面持にて小生に目配《めくば》せ致し候。我が生みの母も初めて孫の顔を見し時、小生に気の毒の感あるらしき様子にて握手致し候。小生の事務所に勤め居る同僚は、昨日小生が出勤せし時、互に顔を見合せて私語《さゝや》き居候。小生の借家の差配人は平素目を掛け居る者にて、昨年のクリスマスにも機械の破損せし懐中時計を子供の玩弄物《おもちや》に致すやうにと贈り遣りしことあるものなるに、昨日《さくじつ》門口にて出逢ひし時、可笑《をか》しさを耐《こら》へ居る如き顔付きを致し候。召使ひ居候下女は何か可笑しさに耐《た》へぬ如く殆ど酒に酔《ゑ》ひたる人かと見ゆる様子を致居候。町の曲り角なる荒物屋の主人は、小生が通り過ぐる毎に後を見送りしこと三四度にして、小生の通り過ぐる時、店に在りし知らぬ老婦人に向ひて、あの男なりと、小生を指さし示し候。斯の如き有様故、此無根の風説の世間に伝はることの速さは想像の外に候。小生の平素全く知らざる人にして、何所《いづこ》より聞き知りしか、此風説を聞き知り居る者有之候。一昨日電車にて宅に帰り候時、車内にて老婆三人話し居るを聞くに、其話は小生の身の上に候。小生の名を称へ居るを明白に聞取候。斯様なる次第故、之に対して小生の為すべき決心は如何なるを至当とすべきか。小生とても有りと有ゆる人に向ひて、ハンベルヒの『自然に於ける不思議』を読め、リムビヨツクの『生れたる子の母の見し物
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