「僕のかかあになってくれるというものがあるよ。妙ではないか」これは謙遜したのではない。児島に比べては、余程世情に通じている古賀も、さすが三角同盟の一隅だけあって、無邪気なものである。僕は妙とも何とも思わなかった。
 僕にも縁談を持って来るものがある。お母様の考では、縦《たと》い洋行をさせられるにしても、妻は持って置く方が好いというのである。お父様には別に議論は無い。そこでお母様が僕にお勧なさるが、僕は生返詞をしている。お母様には僕の考が分らない。僕は又考はあっても言いたくない。言うにしても、頗る言いにくいような気がする。お母様は根気好くお尋なさる。僕は或日ついつい追い詰められて、こんな事を言った。
 妻というものを、どうせいつか持つことになるだろう。持つには嫌な奴では困る。嫌か好かをこっちで極めるのは容易である。しかし女だって嫌な男を持っては困るだろう。生んで貰った親に対して、こう云うのは、恩義に背くようではあるが、女が僕の容貌を見て、好だと思うということは、一寸想像しにくい。或は自知の明《めい》のあるお多福が、僕を見て、あれで我慢をするというようなことは無いにも限るまい。しかし我慢をしてくれるには及ばない。そんな事はこっちから辞退したい。そんなら僕の霊《たましい》の側はどうだ。余り結構な霊を持ち合わせているとも思わないが、これまで色々な人に触れて見たところが、僕の霊がそう気恥かしくて、包み隠してばかりいなければならないようにも思わない。霊の試験を受ける事になれば、僕だって必ず落第するとも思わない。さて結婚の風俗を見るに、容貌の見合はあるが、霊の見合は無い。その容貌の見合でさえ、媒《なかだち》をするものの云うのを聞けば、いつでも先方では見合を要せないと云っているということだ。女は好嫌を言わない。只こっちが見て好嫌を言えば好いというのだ。娘の親は売手で、こっちが買手ででもあるようだ。娘はまるで物品扱を受けている。羅馬《ロオマ》法にでも書いたら、奴隷と同じように、res としてしまわねばならない。僕は綺麗なおもちゃを買いに行く気はない。
 ざっとこう云うような事を、なるたけお母様に分るように説明して見た。お母様は、僕が霊では落第しないが、容貌では落第しそうだと云うのが、大不服である。「わたしはお前を片羽《かたわ》に産んだ覚えはない」と、憤慨に堪えないような口気で仰ゃる。これには僕もひどく恐縮せざることを得ない。それから男が女を択《えら》ぶように、女も男を択ぶのが、正当な見合であるということも、お母様は認めて下さらない。お母様の仰ゃるには、おお方そんな事を言うのは、男女同権とかいう話と同じ筋の話だろう。昔から町家の娘には、見合で壻《むこ》をことわるということがあった。侍の娘は男の魂を見込んで娵《よめ》に往くのだから、男の顔を見てかれこれ云う筈はない。それが日本ばかりの事であっても、好い事なら好いではないか。しかしお父様のお話を聞いたうちに、西洋の王様が家来を隣国へ遣《や》って娵を見させるという話があった。そうして見れば、西洋でも王様なんぞは日本流に娵を取られると見えると、こう仰ゃる。僕は、西洋の事なんぞは、なるたけ言わないようにしているのに、お母様に西洋の例を引いて弁じ附けられて、僕は少し狼狽《ろうばい》した。
 僕の方にはまだ言いたい事は沢山有ったが、この上|反駁《はんばく》を試みるのも悪いと思って、それきりにしてしまった。
 この話をして間もなく、お父様の心安くしていらっしゃる安中《あんなか》という医者が来て、或る大名華族の末家《まっけ》の令嬢を貰えと勧めた。令嬢は番町の一条という画家の内におられる。いつでも見せて遣るということである。お母様は例に依ってお勧なさる。
 僕はふと往って見る気になった。それが可笑しい。そのお嬢さんを見ようと思うのではなくて、見合というものをして見ようと思うのであった。少し無責任な事をしたようではあるが、僕はどんなお嬢さんでも貰わないと極めていた訣《わけ》ではない。貰う気になったら貰おうとだけは思っていたのである。
 三月頃でもあったか、まだ寒かった。僕は安中に連れられて、番町の一条の内へ行った。黒い冠木門《かぶきもん》のある陰気なような家であった。主人の居間らしい八畳の間に通された。安中と火鉢を囲んで雑談をしていると、主人が出て逢われた。五十ばかりの男で、磊落《らいらく》な態度である。画の話なぞをする。暫くして奥さんが令嬢を連れて出られた。
 主人夫婦は色々な話をして座を持っておられる。ゆっくり話して行け、酒を飲むなら酒を出そうかと云う。僕は酒は飲まないと云う。主人がそんなら何を御馳走しようかと云って、首を傾ける。その頃僕は齲歯《むしば》に悩まされていて、内ではよく蕎麦掻《そばがき》を食っていた。そ
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