である。
 今でも学生が卒業する度に謝恩会ということがある。しかし今からあの時の事を思って見ると、客も芸者も風が変っている。
 今は学士になると、別に優遇はせられないまでも、ひどく粗末にもせられないようだ。あの頃は僕なんぞをば、芸者がまるで人間とは思っていなかった。
 あの晩の松源の宴会は、はっきりと僕の記憶に残っている。床の間の前に並んでいる教授がたの処へ、卒業生が交《かわ》る交《がわ》るお杯を頂戴しに行く。教授の中には、わざと卒業生の前へ来て胡坐《あぐら》をかいて話をする人もある。席は大分入り乱れて来た。僕はぼんやりしてすわっていると、左の方から僕の鼻の先へ杯を出したものがある。
「あなた」
 芸者の声である。
「うむ」
 僕は杯を取ろうとした。杯を持った芸者の手はひょいと引込んだ。
「あなたじゃあ有りませんよ」
 芸者は窘《たしな》めるように、ちょいと僕を見て、僕の右前の方の人に杯を差した。笑談《じょうだん》ではない。笑談を粧《よそお》ってもいない。右前にいたのは某教授であった。芸者の方には殆ど背中を向けて、右隣の人と話をしておられた。僕の目には先生の絽《ろ》の羽織の紋が見えていたのである。先生はやっと気が附いて杯を受けられた。僕がいくらぼんやりしていても、人の前に出した杯を横から取ろうとはしない。僕は羽織の紋に杯を差すものがあろうとは思い掛けなかったのである。
 僕はこの時忽ち醒覚《せいかく》したような心持がした。譬《たと》えば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。
 教場でむつかしい顔ばかりしていた某教授が相好《そうごう》を崩して笑っている。僕のすぐ脇の卒業生を掴《つか》まえて、一人の芸者が、「あなた私の名はボオルよ、忘れちゃあ嫌よ」と云っている。お玉とでも云うのであろう。席にいただけのお酌が皆立って、笑談半分に踊っている。誰も見るものはない。杯を投げさせて受け取っているものがある。お酌の間へ飛び込んで踊るものがある。置いてある三味線を踏まれそうになって、慌《あわ》てて退《の》ける芸者がある。さっき僕にけんつくを食わせた芸者はねえさん株と見えて、頻《しき》りに大声を出して駈け廻って世話を焼いている。
 僕の左二三人目に児島がすわっている。彼はぼんやりしている。僕の醒覚前の態度と余り変っていないようだ。その前に一人の芸者がいる。締った体の権衡《けんこう》が整っていて、顔も美しい。若し眼窩《がんか》の縁を際立たせたら、西洋の絵で見る Vesta のようになるだろう。初め膳を持って出て配った時から、僕の注意を惹《ひ》いた女である。傍輩《ほうばい》に小幾《こいく》さんと呼ばれたのまで、僕の耳に留まったのである。その小幾が頻りに児島に話し掛けている。児島は不精々々に返詞をしている。聞くともなしに、対話が僕の耳に這入る。
「あなた何が一番お好」
「橘飩《きんとん》が旨い」
 真面目な返詞である。生年二十三歳の堂々たる美丈夫の返詞としては、不思議ではないか。今日の謝恩会に出る卒業生の中には、捜してもこんなのがいないだけは慥《たしか》である。頭が異様に冷《ひややか》になっていた僕は、間の悪いような可笑《おか》しいような心持がした。
「そう」
 優しい声を残して小幾は座を立った。僕は一種の興味を以て、この出来事の成行を見ている。暫くして小幾は可なり大きな丼《どんぶり》を持って来て、児島の前に置いた。それは橘飩であった。
 児島は宴会の終るまで、橘飩を食う。小幾はその前にきちんとすわって、橘飩の栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れて行くのを眺めていた。
 僕は小幾が為めに、児島のなるたけ多くの橘飩を、なるたけゆっくり食わんことを祈って、黙って先へ帰った。
 後に聞けば、小幾は下谷第一の美人であったそうだ。そして児島は只この美人の※[#「敬」の下に「手」、73−14]《さ》げ来った橘飩を食ったばかりであった。小幾は今某政党の名高い政治家の令夫人である。

      *

 二十《はたち》になった。
 新しい学士仲間は追々口を捜して、多くは地方へ教師になりに行く。僕は卒業したときの席順が好いので、官費で洋行させられることになりそうな噂がある。しかしそれがなかなか極まらないので、お父様は心配してお出《いで》なさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転《ねころ》んで、本を見ている。
 遊びに来るものもめったに無い。古賀は某省の参事官になって、女房を持って、女房の里に同居して、そこから役所へ通っている。児島はそれより前に、大阪の或会社の事務員になって、東京を立った。それを送りに新橋へ行ったとき、古賀が僕に※[#「※」は「口に耳」、74−7]語《ささや》いだ。
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