性欲を研究する材料にはなりにくい。譬《たと》えば Rhodos の kolossos や奈良の大仏が人体の形の研究には適せないようなものである。おれは何か書いて見ようと思っているのだが、前人の足跡を踏むような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽《ほうが》してどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようかしらん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたら或は自分の性欲的生活が normal だか anomalous だか分かるかも知れない。勿論書いて見ない内は、どんネものになるやら分らない。随《したがっ》て人に見せられるようなものになるやら、世に公にせられるようなものになるやら分らない。とにかく暇なときにぽつぽつ書いて見ようと、こんな風な事を思った。
 そこへ独逸《ドイツ》から郵便物が届いた。いつも書籍を送ってくれる書肆《しょし》から届いたのである。その中に性欲的教育の問題を或会で研究した報告があった。性欲的というのは妥《おだやか》でない。Sexual は性的である。性欲的ではない。しかし性という字があまり多義だから、不本意ながら欲の字を添えて置く。さて教育の範囲内で、性欲的教育をせねばならないものだろうか、せねばならないとしたところで、果してそれが出来るだろうかというのが問題である。或会で教育家を一人、宗教家を一人、医学者を一人と云う工合に、おのおのその向の authority とすべき人物を選んで、意見を叩いたのが、この報告になって出たのである。然るに三人の議論の道筋はそれそれ別であるが、性欲的教育は必要であるか、然り、做《な》し得らるるであろうか、然りという答に帰着している。家庭でするが好いという意見もある。学校でするが好いという意見もある。とにかく為《す》るが好い、出来ると決している。教える時期は固《もと》より物心が附いてからである。婚礼の前に絵を見せるという話は我国にもあるが、それを少し早めるのである。早めるのは、婚礼の直前《すぐまえ》まで待っては、その内に間違があるというのである。話は下級生物の繁殖から始めて、次第に人類に及ぶというのである。初に下級生物を話すとはいうが、唯《ただ》植物の雄蕋雌蕋《ゆうずいしずい》の話をして、動物もまた復是の如し、人類もまた復是の如しでは何の役にも立たない。人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬというのである。
 金井君はこれを読んで、暫《しばら》く腕組をして考えていた。金井君の長男は今年高等学校を卒業する。仮に自分が息子に教えねばならないとなったら、どう云ったら好かろうと考えた。そして非常にむつかしい事だと思った。具体的に考えて見れば見る程|詞《ことば》を措《お》くに窮する。そこで前に書こうと思っていた、自分の性欲的生活の歴史の事を考えて、金井君は問題の解決を得たように思った。あれを書いて見て、どんなものになるか見よう。書いたものが人に見せられるか、世に公にせられるかより先に、息子に見せられるかということを検して見よう。金井君はこう思って筆を取った。

      *

 六つの時であった。
 中国の或る小さいお大名の御城下にいた。廃藩置県になって、県庁が隣国に置かれることになったので、城下は俄《にわか》に寂しくなった。
 お父様は殿様と御一しょに東京に出ていらっしゃる。お母様が、湛ももう大分大きくなったから、学校に遣《や》る前から、少しずつ物を教えて置かねばならないというので、毎朝仮名を教えたり、手習をさせたりして下さる。
 お父様は藩の時|徒士《かち》であったが、それでも土塀《どべい》を繞《めぐ》らした門構の家にだけは住んでおられた。門の前はお濠《ほり》で、向うの岸は上《かみ》のお蔵である。
 或日お稽古が済むと、お母様は機を織っていらっしゃる。僕は「遊んでまいります」という一声を残して駈《か》け出した。
 この辺は屋敷町で、春になっても、柳も見えねば桜も見えない。内の塀の上から真赤な椿の花が見えて、お米蔵の側《そば》の臭橘《からたち》に薄緑の芽の吹いているのが見えるばかりである。
 西隣に空地がある。石瓦の散らばっている間に、げんげや菫《すみれ》の花が咲いている。僕はげんげを摘みはじめた。暫く摘んでいるうちに、前の日に近所の子が、男の癖に花なんぞを摘んで可笑《おか》しいと云ったことを思い出して、急に身の周囲《まわり》を見廻して花を棄てた。幸《さいわい》に誰も見ていなかった。僕はぼんやりして立っていた。晴れた麗《うらら》かな日であった。お母様の機を織ってお出《いで》なさる音が、ぎいとん、ぎいとんと聞える。
 空地を隔てて小原という家がある。主人は亡くなっ
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