かし近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じような事を書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写象に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。
そのうちに出歯亀《でばかめ》事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨脹《ぼうちょう》する。所謂《いわゆる》自然主義と聯絡《れんらく》を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分だけが人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。
その頃或日金井君は、教場で学生の一人が Jerusalem の哲学入門という小さい本を持っているのを見た。講義の済んだとき、それを手に取って見て、どんな本だと問うた。学生は、「南江堂に来ていたから、参考書になるかと思って買って来ました、まだ読んで見ませんが、先生が御覧になるならお持下さい」と云った。金井君はそれを借りて帰って、その晩丁度暇があったので読んで見た。読んで行くうちに、審美論の処になって、金井君は大いに驚いた。そこにこういう事が書いてある。あらゆる芸術は Liebeswerbung である。口説《くど》くのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が戸惑《とまどい》をして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督《キリスト》を壻《むこ》だというのは普通である。聖者と崇《あが》められた尼なんぞには、実際性欲を perverse の方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという行《おこない》をした人の中には、Sadist もいれば Masochist もいる。性欲の目金《めがね》を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。Cherchez la femme はあらゆる人事世相に応用することが出来る。金井君は、若《も》しこんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れないかも知れないと思った。
そこで金井君の何か書いて見ようという、兼ての希望が、妙な方角に向いて動き出した。金井君はこんな事を思った。一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴《ちょう》すべき文献は甚《はなは》だ少いようだ。芸術に猥褻《わいせつ》な絵などがあるように、pornographie はどこの国にもある。婬書《いんしょ》はある。しかしそれは真面目なものでない。総ての詩の領分に恋愛を書いたものはある。しかし恋愛は、よしや性欲と密接な関繋《かんけい》を有しているとしても、性欲と同一ではない。裁判の記録や、医者の書いたものに、多少の材料はある。しかしそれは多く性欲の変態ばかりである。Rousseau の懺悔記《ざんげき》は随分思い切って無遠慮に何でも書いたものだ。子供の時教えられた事を忘れると、牧師のお嬢さんが掴《つか》まえてお尻を打つ。それが何とも云えない好い心持がするので、知ったことをわざと知らない振をして、間違った事を言ったり何かして、お嬢さんに打って貰った。ところが、いつかお嬢さんが情を知って打たなくなったなどということが書いてある。これは性欲の最初の発動であって、決して初恋ではない。その外、青年時代の記事には性欲の事もちょいちょい見えている。しかし性欲を主にして書いたものではないから飽き足らない。Casanova は生涯を性欲の犠牲に供したと云っても好い男だ。あの男の書いた回想記は一の大著述であって、あの大部な書物の内容は、徹頭徹尾性欲で、恋愛などにまぎらわしい処はない。しかし拿破崙《ナポレオン》の名聞心《みょうもんしん》が甚だしく常人に超越している為めに、その自伝が名聞心を研究する材料になりにくいと同じ事で、性欲界の豪傑 Casanova の書いたものも、
前へ
次へ
全33ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング