東京へでも行くようになると、余計な物は持って行かれないから、物を選《え》り分けねばならないというので、よく蔵にはいって何かしていらっしゃる。蔵は下の方には米がはいっていて、二階に長持や何かが入れてあった。お父様のこのお為事《しごと》も、客でもあると、すぐに止《や》めておしまいになる。
何故人に言っては悪いのかと思って、お母様に問うて見た。お母様は、東京へは皆行きたがっているから、人に言うのは好くないと仰ゃった。
或日お父様のお留守に蔵の二階へ上って見た。蓋《ふた》を開けたままにしてある長持がある。色々な物が取り散らしてある。もっと小さい時に、いつも床の間に飾ってあった鎧櫃《よろいびつ》が、どうしたわけか、二階の真中に引き出してあった。甲冑《かっちゅう》というものは、何でも五年も前に、長州征伐があった時から、信用が地に墜《お》ちたのであった。お父様が古かね屋にでも遣《や》っておしまいなさるお積で、疾《と》うから蔵にしまってあったのを、引き出してお置になったのかも知れない。
僕は何の気なしに鎧櫃の蓋を開けた。そうすると鎧の上に本が一冊載っている。開けて見ると、綺麗に彩色のしてある絵である。そしてその絵にかいてある男と女とが異様な姿勢をしている。僕は、もっと小さい時に、小原のおばさんの内で見た本と同じ種類の本だと思った。しかしもう大分それを見せられた時よりは智識《ちしき》が加わっているのだから、その時よりは熟《よ》く分った。Michelangelo の壁画の人物も、大胆な遠近法を使ってかいてあるとはいうが、こんな絵の人物には、それとは違って、随分無理な姿勢が取らせてあるのだから、小さい子供に、どこに手があるやら足があるやら弁《わきま》えにくかったのも無理は無い。今度は手も足も好く分った。そして兼て知りたく思った秘密はこれだと思った。
僕は面白く思って、幾枚かの絵を繰り返して見た。しかしここに注意して置かなければならない事がある。それはこういう人間の振舞が、人間の欲望に関係を有しているということは、その時少しも分らなかった。Schopenhauer はこういう事を言っている。人間は容易に醒《さ》めた意識を以て子を得ようと謀《はか》るものではない。自分の胤《たね》の繁殖に手を着けるものではない。そこで自然がこれに愉快を伴わせる。これを欲望にする。この愉快、この欲望は、自然が人間に繁殖を謀《はか》らせる詭謀《きぼう》である、餌《え》である。こんな餌を与えないでも、繁殖に差支《さしつかえ》のないのは、下等な生物である。醒めた意識を有せない生物であると云っている。僕には、この絵にあるような人間の振舞に、そんな餌が伴わせてあるということだけは、少しも分らなかったのである。僕の面白がって、繰り返して絵を見たのは、只まだ知らないものを知るのが面白かったに過ぎない。Neugierde に過ぎない。Wissbegierde に過ぎない。小原のおばさんに見せて貰っていた、島田|髷《まげ》の娘とは、全く別様な眼で見たのである。
さて繰り返して見ているうちに、疑惑を生じた。それは或る体《からだ》の部分が馬鹿に大きくかいてあることである。もっと小さい時に、足でないものを足だと思ったのも、無理は無いのである。一体こういう画はどこの国にもあるが、或る体の部分をこんなに大きくかくということだけは、世界に類が無い。これは日本の浮世絵師の発明なのである。昔希臘の芸術家は、神の形を製作するのに、額を大きくして、顔の下の方を小さくした。額は霊魂の舎《やど》るところだから、それを引き立たせる為めに大きくした。顔の下の方、口のところ、咀嚼《そしゃく》に使う上下の顎《あご》に歯なんぞは、卑しい体の部であるから小さくした。若しこっちの方を大きくすると、段々猿に似て来るのである。Camper の面角《めんかく》が段々小さくなって来るのである。それから腹の割合に胸を大きくした。腹が顎や歯と同じ関係を有しているということは、別段に説明することを要せない。飲食よりは呼吸の方が、上等な作用である。その上昔の人は胸に、詳しく言えば心の臓に、血の循行《めぐり》ではなくて、精神の作用を持たせていたのである。その額や胸を大きくしたと同じ道理で、日本の浮世絵師は、こんな画をかく時に、或る体の部分を大きくしたのである。それがどうも僕には分らなかった。
肉|蒲団《ぶとん》という、支那人の書いた、けしからん猥褻《わいせつ》な本がある。お負に支那人の癖で、その物語の組立に善悪の応報をこじつけている。実に馬鹿げた本である。その本に未央生《みおうせい》という主人公が、自分の或る体の部分が小さいようだというので、人の小便するのを覗《のぞ》いて歩くことが書いてある。僕もその頃人が往来ばたで小便をしていると
前へ
次へ
全33ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング