を脱して自然の懐《ふところ》に走ったのである。古賀がこの話を児島にしたら、児島は一しょに涙を翻したかも知れない。いかにも親孝行はこの上もない善い事である。親孝行のお蔭で、性欲を少しでも抑えて行かれるのは結構である。しかしそれを為《な》し得ない人間がいるのに不思議はない。児島は性欲を吸込の糞坑《ふんこう》にしている。古賀は性欲を折々掃除をさせる雪隠の瓶《かめ》にしている。この二人と同盟になっている僕が、同じように性欲の満足を求めずにいるのは、果して僕の手柄であろうか。それは頗《すこぶ》る疑わしい。僕が若し児島のような美男に生れていたら、僕は児島ではないかも知れない。僕は神聖なる同盟の祭壇の前で、こんな heretical な思議を費していたのである。
僕は古賀の跡に附いて、始て藍染橋《あいぞめばし》を渡った。古賀は西側の小さい家に這入って、店の者と話をする。僕は閾際《しきいぎわ》に立っている。この家は引手茶屋である。古賀は安達が何日《いくか》と何日《いくか》とに来たかというような事を確めている。店のものは不精々々に返辞をしている。古賀は暫《しばら》くしてしおしおとして出て来た。僕等は黙って帰途に就いた。
安達は程なく退学させられた。一年ばかり立ってから、浅草区に子守女や後家なぞに騒がれる美男の巡査がいるという評判を聞いた。又数年の後、古賀が浅草の奥山で、唐桟《とうざん》づくめの頬のこけた凄《すご》い顔の男に逢った。奥山に小屋掛けをして興行している女の軽技師《かるわざし》があって、その情夫が安達の末路であったそうだ。
*
十六になった。
僕はその頃大学の予備門になっていた英語学校を卒業して、大学の文学部に這入った。
夏休から後は、僕は下宿生活をすることになった。古賀や児島と毎晩のように寄席《よせ》に行く。一頃悪い癖が附いて寄席に行かないと寝附かれないようになったこともある。講釈に厭《あ》きて落語を聞く。落語に厭きて女義太夫をも聞く。寄席の帰りに腹が減って蕎麦《そば》屋に這入ると、妓夫が夜鷹《よたか》を大勢連れて来ていて、僕等はその百鬼夜行の姿をランプの下に見て、覚えず戦慄《せんりつ》したこともある。しかし「仲までお安く」という車なぞにはとうとう乗らずにしまった。
多分生息子で英語学校を出たものは、児島と僕と位なものだろう。文学部に這入ってから
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