。人の借りている人情本を読む。何だか、男と女との関係が、美しい夢のように、心に浮ぶ。そして余り深い印象をも与えないで過ぎ去ってしまう。しかしその印象を受ける度毎に、その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の享《う》ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった。
埴生とはやはり一しょに遊ぶ。暮春の頃であった。月曜日の午後埴生と散歩に出ると、埴生が好い処へ連れて行って遣ろうと云う。何処だと聞けば、近処の小料理屋なのである。僕はそれまで蕎麦《そば》屋や牛肉屋には行ったことがあるが、お父様に連れられて、飯を食いに王子の扇屋に這入った外、御料理という看板の掛かっている家へ這入ったことがないのだから、非道《ひど》く驚いた。
「そんな処へ君はひとりで行けるか」
「ひとりじゃあない。君と行こうというのだ」
「そりゃあ分かっている。僕がひとりというのは、大きい人に連れられずに行けるかというのだ。一体君はもう行ったことがあるのか」
「うむ。ある。此間《こないだ》行って見たのだ」
埴生は頗《すこぶ》る得意である。二人は暖簾《のれん》を潜《くぐ》った。「いらっしゃい」と一人の女中が云って、僕等を見て、今一人の女中と目引き袖引き笑っている。僕は間《ま》が悪くて引き返したくなったが、埴生がずんずん這入るので、しかたなしに附いて這入った。
埴生は料理を誂《あつら》える。酒を誂える。君は酒が飲めるかというと、飲まなくても誂えるものだという。女中は物を運んで来る度に、暫く笑いながら立って見ている。僕は堅くなって、口取か何かを食っていると、埴生がこんな話をし出した。
「昨日は実に愉快だったよ」
「何だ」
「おじの年賀に呼ばれて行ったのだ。そうすると、芸者やお酌が大勢来ていて、まだ外のお客が集まらないので、遊んでいた。そのうちのお酌が一人、僕に一しょに行って庭を見せてくれろと云うだろう。僕はそいつを連れて庭へ行った。池の縁《ふち》を廻って築山《つきやま》の処へ行くと、黙って僕の手を握るのだ。それから手を引いて歩いた。愉快だったよ」
「そうか」
僕は一語を讃することを得ない。そして僕の頭には例の夢のような美しい想像が浮んだ。なる程埴生なら、綺麗なお酌と手を引いて歩いても、好く似合うだろうと思った。埴生は美少年であるばかりではない。着物なぞも相応にさっぱりした
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