少いので、九州人というのは佐賀と熊本との人であった。これに山口の人の一部が加わる。その外は中国一円から東北まで、悉《ことごと》く軟派である。
その癖硬派たるが書生の本色で、軟派たるは多少|影護《うしろめた》い処があるように見えていた。紺足袋小倉袴は硬派の服装であるのに、軟派もその真似をしている。只軟派は同じ服装をしていても、袖をまくることが少い。肩を怒らすることが少い。ステッキを持ってもステッキが細い。休日に外出する時なんぞは、そっと絹物を着て白足袋を穿《は》いたり何かする。
そしてその白足袋の足はどこへ向くか。芝、浅草の楊弓店、根津、吉原、品川などの悪所である。不断紺足袋で外出しても、軟派は好く町湯に行ったものだ。湯屋には硬派だって行くことがないではないが、行っても二階へは登らない。軟派は二階を当《あて》にして行く。二階には必ず女がいた。その頃の書生には、こういう湯屋の女と夫婦約束をした人もあった。下宿屋の娘なんぞよりは、無論一層下った貨物《しろもの》なのである。
僕は硬派の犠牲であった。何故というのに、その頃の寄宿舎の中では、僕と埴生《はにゅう》庄之助という生徒とが一番年が若かった。埴生は江戸の目医者の子である。色が白い。目がぱっちりしていて、唇は朱を点じたようである。体はしなやかである。僕は色が黒くて、体が武骨で、その上田舎育である。それであるのに、意外にも硬派は埴生を附け廻さずに、僕を附け廻す。僕の想像では、埴生は生れながらの軟派であるので免れるのだと思っていたのである。
学校に這入《はい》ったのは一月である。寄宿舎では二階の部屋を割り当てられた。同室は鰐口弦《わにぐちゆずる》という男である。この男は晩学の方であって、級中で最年長者の一人であった。白|菊石《あばた》の顔が長くて、前にしゃくれた腮《あご》が尖《とが》っている。痩《や》せていて背が高い。若《も》しこの男が硬派であったら、僕は到底免れないのであったかと思う。
幸に鰐口は硬派ではなかった。どちらかと云えば軟派で、女色の事は何でも心得ているらしい。さればとて普通の軟派でもない。軟派の連中は女に好かれようとする。鰐口は固《もと》より好かれようとしたとて好かれもすまいが、女を土苴《つちづと》の如くに視ている。女は彼の為に、只性欲に満足を与える器械に過ぎない。彼は機会のある毎にその欲を遂げる。そし
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