ning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入《はい》って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじゃない。さあ」
僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪《えんお》と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳《おど》り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団|蒸《むし》にして懲《こら》して遣れ」
手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳《は》ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛《ゆる》む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら敏捷《びんしょう》であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお父《とう》様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗《な》めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。
*
十三になった。
去年お母様がお国からお出になった。
今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃《や》めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってか
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