まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
今までしゃべっていた話家が、起《た》って腰を屈《かが》めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄《ばえ》も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得《かくとく》するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。
*
同じ年の十月頃、僕は本郷|壱岐坂《いきざか》にあった、独逸《ドイツ》語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東《あずま》先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に贅沢《ぜいたく》はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳《ほんやく》なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位|閨門《けいもん》のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
僕は東先生の内にいる間、性慾上の刺戟《しげき》を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を手繰《たぐ》って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを点《つ》けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思
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