自然が人間に繁殖を謀《はか》らせる詭謀《きぼう》である、餌《え》である。こんな餌を与えないでも、繁殖に差支《さしつかえ》のないのは、下等な生物である。醒めた意識を有せない生物であると云っている。僕には、この絵にあるような人間の振舞に、そんな餌が伴わせてあるということだけは、少しも分らなかったのである。僕の面白がって、繰り返して絵を見たのは、只まだ知らないものを知るのが面白かったに過ぎない。Neugierde に過ぎない。Wissbegierde に過ぎない。小原のおばさんに見せて貰っていた、島田|髷《まげ》の娘とは、全く別様な眼で見たのである。
 さて繰り返して見ているうちに、疑惑を生じた。それは或る体《からだ》の部分が馬鹿に大きくかいてあることである。もっと小さい時に、足でないものを足だと思ったのも、無理は無いのである。一体こういう画はどこの国にもあるが、或る体の部分をこんなに大きくかくということだけは、世界に類が無い。これは日本の浮世絵師の発明なのである。昔希臘の芸術家は、神の形を製作するのに、額を大きくして、顔の下の方を小さくした。額は霊魂の舎《やど》るところだから、それを引き立たせる為めに大きくした。顔の下の方、口のところ、咀嚼《そしゃく》に使う上下の顎《あご》に歯なんぞは、卑しい体の部であるから小さくした。若しこっちの方を大きくすると、段々猿に似て来るのである。Camper の面角《めんかく》が段々小さくなって来るのである。それから腹の割合に胸を大きくした。腹が顎や歯と同じ関係を有しているということは、別段に説明することを要せない。飲食よりは呼吸の方が、上等な作用である。その上昔の人は胸に、詳しく言えば心の臓に、血の循行《めぐり》ではなくて、精神の作用を持たせていたのである。その額や胸を大きくしたと同じ道理で、日本の浮世絵師は、こんな画をかく時に、或る体の部分を大きくしたのである。それがどうも僕には分らなかった。
 肉|蒲団《ぶとん》という、支那人の書いた、けしからん猥褻《わいせつ》な本がある。お負に支那人の癖で、その物語の組立に善悪の応報をこじつけている。実に馬鹿げた本である。その本に未央生《みおうせい》という主人公が、自分の或る体の部分が小さいようだというので、人の小便するのを覗《のぞ》いて歩くことが書いてある。僕もその頃人が往来ばたで小便をしていると
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