道《みち》を取りて、杉林《すぎばやし》を穿《うが》ち、迂廻《うかい》して下《くだ》ることなり。これより鳳山亭の登《のぼ》りみち、泉《いづみ》ある処に近き荼毘所《とびじょ》の迹《あと》を見る。石を二行《にぎょう》に積みて、其間の土を掘《ほ》りて竈《かまど》とし、その上に桁《けた》の如く薪を架《か》し、これを棺《かん》を載《の》するところとす。棺は桶《おけ》を用いず、大抵《たいてい》箱形《はこがた》なり。さて棺のまわりに糠粃《ぬか》を盛りたる俵六つ或は八つを竪《たて》に立掛《たてか》け、火を焚付《たきつ》く。俵の数は屍《しかばね》の大小により殊《こと》なるなり。初薪のみにて焚きしときは、むら焼けになることありて、火箸《ひばし》などにてかきまぜたりしが、糠粃を用いそめてより、屍の燃《も》ゆるにつれて、こぼれこみて掩《おお》えば、さる憂《うれい》なしといえり。山田にては土葬《どそう》するもの少く、多くは荼毘するゆえ、今も死人《しにん》あれば此竈を使《つか》うなり。村はずれの薬師堂の前にて、いわなの大なるを買《か》いて宿《やど》の婢に笑《わら》わる。いわなは小なるを貴び、且ところの流にて取りたるをよしとするものなるに、わが買いもてかえりしは、草津のいわなの大なるなれば、味定めて悪《あし》からんという。嘗《こころ》みるに果して然り。ここより薬師堂の方を、六里ばかり越ゆけば草津に至るべし、是れ間道《かんどう》なり。今年の初、欧洲人雪を侵《おか》して越《こ》えしが、むかしより殆ためしなき事とて、案内者《あんないしゃ》もたゆたいぬと云。
 廿四日、天気《てんき》好《よ》し。隣《となり》の客《きゃく》つとめて声高《こわだか》に物語《ものがたり》するに打驚《うちおどろ》きて覚《さ》めぬ。何事《なにごと》かと聞けば、衛生《えいせい》と虎列拉《これら》との事なり。衛生とは人の命《いのち》延《の》ぶる学《がく》なり、人の命|長《なが》ければ、人口《じんこう》殖《ふ》えて食《しょく》足《た》らず、社会《しゃかい》のためには利《り》あるべくもあらず。かつ衛生の業《ぎょう》盛《さかん》になれば、病人《びょうにん》あらずなるべきに、医《い》のこれを唱《とな》うるは過《あやま》てり云々。これ等の論《ろん》、地下《ちか》のスペンサア[#「スペンサア」に傍線]を喜《よろこ》ばしむるに足《た》らん。虎列拉には三種《さんしゅ》ありて、一を亜細亜虎列拉といい、一を欧羅巴虎列拉といい、一を霍乱《かくらん》という、此病には「バチルレン」というものありて、華氏百度の熱《ねつ》にて死《し》す云々。これはペツテンコオフエル[#「ペツテンコオフエル」に傍線]が疫癘学《えきれいがく》、コツホ[#「コツホ」に傍線]が細菌学《さいきんがく》を倒《たお》すに足りぬべし。また恙《よう》の虫《むし》の事語りていわく、博士なにがしは或るとき見に来しが何のしいだしたることもなかりき、かかることは処《ところ》の医こそ熟《よ》く知りたれ。何某という軍医、恙の虫の論に図《ず》など添《そ》えて県庁にたてまつりしが、こはところの医のを剽窃《ひょうせつ》したるなり云々。かかることしたり顔《がお》にいい誇《ほこ》るも例の人の癖《くせ》なるべし。おなじ宿《やど》に木村篤迚、今新潟始審裁判所の判事|勤《つと》むる人あり。臼井六郎が事を詳《つまびらか》に知れりとて物語す。面白《おもしろ》きふし一ツ二ツかきつくべし。当時秋月には少壮者《しょうそうしゃ》の結べる隊《たい》ありて、勤王党と称《しょう》し、久留米などの応援《おうえん》を頼みて、福岡より洋式《ようしき》の隊来るを、境《さかい》にて拒み、遂に入れざりしほどの勢なりき。これに反対《はんたい》したる開化党は多く年長《とした》けたる士なりしが、其|首《かしら》にたちて事をなす学者二人ありて、皆陽明学者なりし、その一人は六郎が父なりき。勤王党の少壮者二手に分かれて、ある夜彼二人の邸《やしき》にきりこみぬ。なにがしという一人の家を囲《かこ》みたるおり、鶏《にわとり》の塒《ねぐら》にありしが、驚きて鳴きしに、主人すは狐《きつね》の来しよと、素肌《すはだか》にて起き、戸を出ずる処を、名乗掛《なのりか》けて唯《ただ》一槍《ひとやり》に殺しぬ。六郎が父は、其夜|酔臥《すいが》したりしが、枕《まくら》もとにて声掛けられ、忽ちはね起きて短刀《たんとう》抜《ぬ》きはなし、一たち斫《き》られながら、第二第三の太刀を受けとめぬ。その命を断ちしは第四の太刀なりき。六郎が母もこの夜殺されぬ。はじめ家族までも傷《きづつ》けんという心はなかりしが、きり入りし一同《いちどう》の鳥銃放ちて引上げたるとき、一人足らざりしかば、怪みて臼井が邸にかえりて見しに、此男六郎が母に組《く》まれて、其場を去り得ざりしなり。引放《ひきはな》たんとするに、母|劇《はげ》しくすまいて、屈する気色《けしき》なければ、止むを得ずして殺しぬ。六郎が祖父は隠居所《いんきょじょ》にありしが、馳出《はせい》でて門のあきたるを見て、外なる狼藉者《ろうぜきもの》を入れじと、門を鎖《とざ》さんとせしが、白刃振りて迫《せま》られ、勢《いきおい》敵《てき》しがたしとやおもいけん、また隠居所に入りぬ。六郎が母を殺しし人は、今もながらえたり。六郎が父殺しし人の、一瀬なりしことは、初知るものなかりしが、故《ことさ》らに迹《あと》を滅《け》さんと、きりこみし人々、皆其刀を礪《と》がせし中に、一瀬が刀の刃《は》二個処いちじるしくこぼれたるが、臼井が短刀のはのこぼれに吻合《ふんごう》したるより露《あら》われにき。六郎が父の首《くび》は人々持ちかえりしが、彼素肌にてつき殺されし人は、ずだずだに切《き》られて、頭さえ砕《くだ》けたりき。木村氏はそのおり臼井の邸に向いし一人なりしが、刃にちぬるに至らず、六郎が東京に出でて勤学《きんがく》せんといいしときも、親類《しんるい》のちなみありとて、共に旅立《たびだ》つこととなりぬ。六郎は東京にて山岡鉄舟の塾《じゅく》に入りて、撃剣《げきけん》を学び、木村氏は熊谷の裁判所に出勤《しゅっきん》したりしに、或る日六郎|尋《たづ》ねきて、撃剣の時|誤《あやま》りて肋骨《あばらぼね》一本折りたれば、しばしおん身が許《もと》にて保養《ほよう》したしという。さて持《も》てきし薬《くすり》など服《ふく》して、木村氏のもとにありしが、いつまでも手を空《むなし》くしてあるべきにあらねば、月給八円の雇吏《やとい》としぬ。その頃より六郎|酒色《しゅしょく》に酖《ふけ》りて、木村氏に借銭《しゃくせん》払わすること屡々《しばしば》なり。ややありて旅費《りょひ》を求《もと》めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所《にんしょ》へゆきし一瀬が跡《あと》追《お》いてゆかんに、旅費なければこれを獲《え》ぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕《つく》いしのみにて、夜な夜な撃剣のわざを鍛《きた》いぬ。任所にては一瀬を打つべき隙《ひま》なかりしかば、随《したが》いて東京に出で、さて望を遂《と》げぬ。その折の事は世のよく知る所なれば、ここにはいわず。臼井六郎も今は獄《ごく》を出でたり。獄中にて西教に傾《かたむ》きたりといえば、彼コルシカ[#「コルシカ」に二重傍線]人の「ワンデツタ」に似《に》たる我邦|復讐《ふくしゅう》の事、いま奈何《いか》におもうらん。されど其母殺したりという人は、安《やす》き心もあらぬなるべし。きょうは女郎花《おみなえし》、桔梗《ききょう》など折来《おりき》たりて、再び瓶《かめ》にさしぬ。
 二十五日、法科大学の学生なる丸山という人訪いく。米子の滝の勝《しょう》を語《かた》りて、ここへ来し途《みち》なる須坂より遠からずと教《おし》えらる。滝の話は、かねても聞きしことなれど、往て観《み》んとおもう心切なり。
 二十六日、天|陰《くも》りて霧《きり》あり。きょうは米子に往かんと、かねて心がまえしたりしが、偶々《たまたま》信濃新報を見しに、処々の水害にかえり路の安からぬこと、かずかず書《か》きしるしたれば、最早《もはや》京に還るべき期も迫りたるに、ここに停《とど》まること久しきにすぎて、思いかけず期に遅《おく》るることなどあらんも計られずと、危《あや》ぶみおもいて、須坂に在りて待《ま》たんといわれし丸山氏のもとへ人をやりて謝し、急《いそ》ぎて豊野の方へいでたちぬ。この道《みち》は、はじめ来しおりの道よりは近きに下り坂なれば、人力車にてゆく。小布施という村にて、しばし憩《いこ》いぬ。このわたりの野に、鴨頭草のみおい出でて、目の及ぶかぎり碧《あお》きところあり、又秋萩の繁《しげ》りたる処あり。麻畑の傍《そば》を過ぐ、半ば刈《か》りたり。信濃川にいでて見るに船橋|断《た》えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路の壊《やぶ》れたるところ多し、又|仮《かり》に繕《つくろ》いたるのみなれば、そこに来るごとに車のあゆみを緩《ゆる》くす。近き流を見るに、濁浪《だくろう》岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。されど稲は皆|恙《つつが》なし。夜軽井沢の油屋にやどる。
 二十七日、払暁|荷車《にぐるま》に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱に比《くら》ぶれば、はるかに勝《まさ》れり。固より撥条《バネ》なきことは同じけれど、壁なく天井《てんじょう》なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川に抵《いた》る。嶺の路ここかしこに壊《やぶ》れたるところ多かりしが、そは皆かりに繕いたれば車通いしなり。横川よりゆくての方は、山の頽《くず》れおちて全く軌道を埋《うず》めたるあり、橋のおちたるありて、車かよわずといえば、鞋《わらじ》はきていず。軌道より左に折れてもとの街道をゆくに、これも断《た》えたる処あれば、山を踰《こ》え渓《たに》を渡りなどす。松井田より汽車に乗りて高崎に抵《いた》り、ここにて乗《の》りかえて新町につき、人力車を雇《やと》いて本庄にゆけば、上野までの汽車みち、阻礙なしといえり。汽車は日に晒《さら》したるに人を載することありて、そのおりの暑《あつ》さ堪えがたし、西国にてはさぞ甚しからん。このたびの如き変ある日には是非《ぜひ》なけれど、客をあまりに多く容《い》るるは、よからぬことなり。また車丁等には、上、中、下等の客というこころなくして、彼は洋服《ようふく》きたれば、定めてありがたき官員ならん、此は草鞋《わらじ》はきたれば、定めていやしき農夫ならんという想像《そうぞう》のみあるように見うけたり。上等、中等の室に入りて、切符《きっぷ》しらぶるにも、洋服きたる人とその同行者とは問《と》わずして、日本服のものはもらすことなかりき。また豊野の停車場にては、小荷物|預《あず》けんといいしに、聞届《ききとど》けがたしと、官員がほしていいしを、痛《いた》く責《せ》めしに、後には何事をいいても、いらえせずなりぬ。これとはうらうえなるは、松井田にて西洋人の乗《の》りしとき、車丁の荷物《にもつ》を持ちはこびたると、松井田より本庄まで汽車《きしゃ》のかよわぬ軌道を、洋服きたる人の妻子婢妾にとおらせ、猶|飽《あ》きたらでか、これを空《あ》きたる荷積汽車にのせて人に推《お》させたるなどなりき。渾《すべ》てこの旅の間に、洋服の勢力《せいりょく》あるを見しこと、幾度か知られず。茶店、旅宿などにても、極上等の座敷《ざしき》のたたみは洋服ならでは踏《ふ》みがたく、洋服着たる人は、後に来りて先ず飲食《いんしょく》することをも得つべし。茶代《ちゃだい》の多少などは第二段の論にて、最大大切なるは、服の和洋なり。旅《たび》せんものは心得置くべきことなり。されど奢《おご》るは益なし、洋服にてだにあらば、帆木綿《ほもめん》にてもよからん。白き上衣の、腋《わき》の下早や黄ばみたるを着たる人も、新しき浴衣《ゆかた》着たる人よりは崇《たっと》ばるるを見ぬ。



底本:「日本の名随筆15 旅」作品社
   1983(昭和58)年9月2
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