》てきぬというを、一尾買いてゆうげの時まで活《いか》しおきぬ。流石《さすが》に信濃の国なれば、鮒をかしらにはあらざりけり、屋背《うしろ》の渓川は魚|栖《す》まず、ところのものは明礬《めんばん》多ければなりという。いわなの居る河は鳳山亭より左に下りたる処なり。そこへ往《ゆ》かんとて菅笠《すげがさ》いただき草鞋《わらじ》はきて出でたつ。車前草おい重りたる細径《こみち》を下りゆきて、土橋《どばし》ある処に至る。これ魚栖めりという流なり。苔《こけ》を被ぶりたる大石|乱立《らんりつ》したる間を、水は潜りぬけて流れおつ。足いと長き蜘蛛《くも》、ぬれたる巌《いわお》の間をわたれり、日暮るる頃まで岩に腰《こし》かけて休《やすら》い、携えたりし文など読む。夕餉《ゆうげ》の時老女あり菊の葉、茄子など油にてあげたるをもてきぬ。鯉、いわなと共にそえものとす。いわなは香味《こうみ》鮎《あゆ》に似たり。
 二十一日、あるじ来て物語《ものがたり》す。父《ちち》は東京にいでしことあれど、おのれは高田より北、吹上より南を知《し》らずという。東京の客《かく》のここへ来ることは、年《とし》に一たびあらんなどいえど、それも山
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