て例の帳閉じたれば息《いき》籠《こ》もりて汗の臭《か》車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘《でいねい》踝《くるぶし》を没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道《きどう》の二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子《ちゃがし》などもて来《く》れど、飲食《のみく》わむとする人なし。下りになりてより霧《きり》深《ふか》く、背後《うしろ》より吹く風《かぜ》寒《さむ》く、忽夏を忘れぬ。されど頭のやましきことは前に比べて一層を加えたり。軽井沢停車場《かるいさわていしゃじょう》の前にて馬車はつ。恰も鈴鐸《れいたく》鳴るおりなりしが、余りの苦しさに直には乗り遷らず。油屋《あぶらや》という家に入りて憩う。信州《しんしゅう》の鯉はじめて膳に上る、果して何の祥にや。二時間《にじかん》眠りて、頭やや軽き心地す。次の汽車に乗ればさきに上野《うえの》よりの車にて室を同うせし人々もここに乗りたり。中には百年も交りたるように親みあうも見えて、いとにがにがしき事に覚えぬ。若し方今のありさまにて、傾蓋《けいがい》
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