ってみずからおったこともなく、歴史家をもってみずから任じたこともない。ただ、暫留《ざんりゅう》の地がたまたま田園なりしゆえに耕し、たまたま水涯なりしゆえに釣ったごときものである。つづめていえばわたくしは終始ヂレッタンチスムをもって人に知られた。
歳計をなすものに中為切《なかじきり》ということがある。わたくしはこの数行を書して一生の中為切とする。しかし中為切があるいはすなわち総勘定であるかも知れない。少くも官歴より観れば、総勘定もまたかくのごときにすぎない。
これが過去である。そして現在はなにをしているか。
わたくしはなにもしていない。一閑人として生存している。しかし人間はウェジェタチイフにのみ生くること能わざるものである。人間は生きている限りは思量する。閑人が往々|棋《ご》を囲みかるたをもてあそぶゆえんである。
あますところの問題はわたくしが思量の小児にいかなる玩具《おもちゃ》を授けているかというにある。ここにその玩具を検してみようか。わたくしは書を読んでいる。それが支那《しな》の古書であるのは、いま西洋の書が獲《え》がたくして、そのたまたま獲《う》べきものがみな戦争をいうがゆ
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