人にいろ/\説いて、とう/\百三十兩までに負けて貰ふことにして、買ひ取る約束をした。三十兩は借財をする積なのである。
伊織が金を借りた人は相番の下島甚右衞門と云ふものである。平生親しくはせぬが工面の好いと云ふことを聞いてゐた。そこで此下島に三十兩借りて刀を手に入れ、拵へを直しに遣つた。
そのうち刀が出來て來たので、伊織はひどく嬉しく思つて、恰も好し八月十五夜に親しい友達柳原小兵衞等二三人を招いて、刀の披露|旁《かた/″\》馳走をした。友達は皆刀を褒めた。酒|酣《たけなは》になつた頃、ふと下島が其席へ來合せた。めつたに來ぬ人なので、伊織は金の催促に來たのではないかと、先づ不快に思つた。しかし金を借りた義理があるので、杯をさして團欒《まとゐ》に入れた。
暫く話をしてゐるうちに、下島の詞に何となく角があるのに、一同氣が附いた。下島は金の催促に來たのではないが、自分の用立てた金で買つた刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思つて、わざと酒宴の最中に尋ねて來たのである。
下島は二言三言伊織と言ひ合つてゐるうちに、とう/\かう云ふ事を言つた。「刀は御奉公のために大切な品だから、隨分借財をして買つて好からう。しかしそれに結構な拵をするのは贅澤だ。其上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」と云つた。
此詞の意味よりも、下島の冷笑を帶びた語氣が、いかにも聞き苦しかつたので、俯向いて聞いてゐた伊織は勿論、一座の友達が皆不快に思つた。
伊織は顏を擧げて云つた。「只今のお詞は確に承つた。その御返事はいづれ恩借の金子を持參した上で、改て申上げる。親しい間柄と云ひながら、今晩わざ/\請待した客の手前がある。どうぞ此席はこれでお立下されい」と云つた。
下島は面色が變つた。「さうか。返れと云ふなら返る。」かう言ひ放つて立ちしなに、下島は自分の前に据ゑてあつた膳を蹴返した。
「これは」と云つて、伊織は傍にあつた刀を取つて立つた。伊織の面色は此時變つてゐた。
伊織と下島とが向き合つて立つて、二人が目と目を見合せた時、下島が一言「たはけ」と叫んだ。其聲と共に、伊織の手に白刃が閃いて、下島は額を一刀切られた。
下島は切られながら刀を拔いたが、伊織に刃向ふかと思ふと、さうでなく、白刃を提《ひつさ》げた儘、身を飜して玄關へ逃げた。
伊織が續いて出ると、脇差を拔いた下島の仲間《ちゆうげん》が立ち塞がつた。「退け」と叫んだ伊織の横に拂つた刀に仲間は腕を切られて後へ引いた。
其隙に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛に追ひ縋らうとした時、跡から附いて來た柳原小兵衞が「逃げるなら逃がせい」と云ひつつ、背後からしつかり抱き締めた。相手が死なずに濟んだなら、伊織の罪が輕減せられるだらうと思つたからである。
伊織は刀を柳原にわたして、しを/\と座に返つた。そして默つて俯向いた。
柳原は伊織の向ひにすわつて云つた。「今晩の事は己を始、一同が見てゐた。いかにも勘辨出來ぬと云へばそれまでだ。しかし先へ刀を拔いた所存を、一應聞いて置きたい」と云つた。
伊織は目に涙を浮べて暫く答へずにゐたが、口を開いて一首の歌を誦した。
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「いまさらに何とか云はむ黒髮の
みだれ心はもとすゑもなし」
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下島は額の創が存外重くて、二三日立つて死んだ。伊織は江戸へ護送せられて取調を受けた。判決は「心得違の廉《かど》を以て、知行召放《ちぎやうめしはな》され、有馬左兵衞佐允純《ありまさひやうゑのすけまさずみ》へ永の御預仰付らる」と云ふことであつた。伊織が幸橋外の有馬邸から、越前國丸岡へ遣られたのは、安永と改元せられた翌年の八月である。
跡に殘つた美濃部家の家族は、それ/″\親類が引き取つた。伊織の祖母貞松院は宮重七五郎方に往き、父の顏を見ることの出來なかつた嫡子平内と、妻るんとは有竹の分家になつてゐる笠原新八郎方に往つた。
二年程立つて、貞松院が寂しがつてよめの所へ一しよになつたが、間もなく八十三歳で、病氣と云ふ程の容體もなく死んだ。安永三年八月二十九日の事である。
翌年又五歳になる平内が流行の疱瘡で死んだ。これは安永四年三月二十八日の事である。
るんは祖母をも息子をも、力の限介抱して臨終を見屆け、松泉寺に葬つた。そこでるんは一生武家奉公をしようと思ひ立つて、世話になつてゐる笠原を始、親類に奉公先を搜すことを頼んだ。
暫く立つと、有竹氏の主家戸田淡路守|氏養《うぢやす》の鄰邸、筑前國福岡の領主黒田家の當主松平筑前守治之の奧で、物馴れた女中を欲しがつてゐると云ふ噂が聞えた。笠原は人を頼んで、そこへるんを目見えに遣つた。氏養と云ふのは、六年前に氏之の跡
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