を續いだ戸田家の當主である。
 黒田家ではるんを一目見て、すぐに雇ひ入れた。これが安永六年の春であつた。
 るんはこれから文化五年七月まで、三十一年間黒田家に勤めてゐて、治之《はるゆき》、治高、齊隆《なりたか》、齊清四代の奧方に仕へ、表使格に進められ、隱居して終身二人扶持を貰ふことになつた。此間るんは給料の中から松泉寺へ金を納めて、美濃部家の墓に香華を絶やさなかつた。
 隱居を許された時、るんは一旦笠原方へ引き取つたが、間もなく故郷の安房へ歸つた。當時の朝夷郡《あさいごほり》眞門村で、今の安房郡江見村である。
 其翌年の文化六年に、越前國丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や劍術を教へて暮してゐた夫伊織が、「三月八日|浚明院殿《しゆんめいゐんでん》御追善《ごつゐぜん》の爲、御慈悲の思召を以て、永の御預御免仰出され」て、江戸へ歸ることになつた。それを聞いたるんは、喜んで安房から江戸へ來て、龍土町の家で、三十七年振に再會したのである。
[#地から2字上げ](大正四年九月「新小説」第二十年第九卷)



底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
   1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月23日修正
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