子、上の字なんぞ附けてはお万ねえさんに悪いわねえとは、ちびの文子なかなかませたり、下から来た女に堀田原《ほったはら》の使はと問へばまだといふに、追《お》ひ駈《か》けてまた人を遣り、あの竪樋《たてどい》の音に負けぬやうにと、三谷が得意の一中《いっちゅう》始まりて、日の暮るるをも知らざりけり、そもそも堀田原の中屋《なかや》といつぱ、ここらには熟《よ》く知れ渡りたる競呉服《せりごふく》にて、今こそ帝国意匠会社などいふ仰山《ぎょうさん》なものも出来たれ、凝つた好《このみ》といへばこの中屋に極はまれり、二番息子の清二郎へ朝倉より雨を衝《つ》いての迎《むかえ》に、お客はと尋ねれば三谷さんに兼吉さんがお出《いで》とばかり好く分らず、呼びに遣りし車の来ぬ内再度の使|忙《せわ》しければ、ともかくも直《じ》きにと荻江まで附けさせ、お幾婆《いくばあ》さんに何であらうと相談すればここでもわからず、そんな噂はなかりしが兼吉さんが引《ひ》つ籠《こ》むので浴衣の誂《あつらえ》でもあるのか知らぬとのみ、家の娘お浅《あさ》の小花さんが待つてお出《いで》なれば帰にはお寄《より》でせうねといふを後《うしろ》に聞きて、朝倉に
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