とやうやういふに、大好《だいすき》よと無頓着なる返辞、ええ悔《く》やしいと反《そ》りかへつて正体なし、その夜座敷を断りて臥《ふ》しゐたる小花の許《もと》へ、つひになきこと目と鼻の間に住む兼吉が文届《ふみとど》きぬ、しかもその長々しさは一本の巻紙皆にせしかと思ふばかり、痛む頭を擡《もた》げし小花が虫を押へて拾読《ひろいよみ》するその文に曰《いわ》く、一筆《ひとふで》しめし上参《あげまい》らせ候《そろ》、今は何事をも包まず打ち明けて申上げ候ふ故、憎い兼吉がためとお思なく可哀い清さんのためと御読分《およみわけ》下されたく候、申すも御恥かしき事ながら、お前様といふものある清さんに年上なる身をも恥ぢず思を掛け、出来ぬこと済まぬことと堪《こら》へれば堪へるほど夢現《ゆめうつつ》の境も弁《わきま》へず焦《こが》れ候ふはいかなる因果《いんが》か、これは久しき前よりの事に候へども、御存じの通の私が身持、昨日《きのう》は誰|今日《きょう》は誰と浮名《うきな》の立つを何とも思はず、つひこの頃までも親方と私との中は知らぬ人なき位に候ふ事とて、お前様にも清さんにも覚《さと》られ候こともなく打ち過ぎ候ふに、昨日|三谷《さんや》さんのお座敷にて、ふとした常談に枝葉《えだは》がさき、清さんを呼んで下され、呼んで遣らうといはれた時の嬉しさいかばかりぞ、これのみは御自分の身に引《ひ》き比《くら》べお察し下されたく候、さて床の展《の》べあり候|間《ま》に清さんと這入《はい》り候時の私の心は、ただただ夢の如くにて自分にもかうかうとはつきり分りをらず候へども掻《か》い撮《つま》んで申し候へば、まことにまことに卑しく汚《けがら》はしく筆に書き候も恥かしき次第、お前様といふものある清さんとこのやうな身持の私が、すなほに彼此《かれこれ》申し候とも願の※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》ふはずなければ、何事も三谷さんの酒の上から出た戯《たわぶれ》のやうに取成《とりな》し、一しよにさへ寝たならば、なんぼ実があるとて、まだ年若な清さん、私はこんなお多福《たふく》でも側にゐられて気持の悪くなるほどの女でもある間敷《まじく》、つひ手が障《さわ》り足が障るといふやうな事にならば、その上で言ひたい事をも申すべしと存じ候《そうら》ひしには違《ちがい》なく、かやうな悪しき心を持ち候ひし事、今更申すも恥しく候、さて女の性《しょう》は悪しきものと我ながら驚き候は、大人《おとな》しく横になつてゐた清さんの領《えり》へ私が手を遣《や》りし事に候、その時に清さんは身を縮めてぶるぶると震ひなされ候、女の肌知らぬ人といふではなし、可笑《おか》しな事申すやうではあれど色々の男と寝たことある私、つひにない事、はつと思つて手を引き候とたん何とも申さうやうのない心持《ここち》致し、それまで燃え立つやうに覚え候ふ胸の直様《すぐさま》水を浴《あび》せられ候ふやうになり、ふつつりと思ひ切つて清さんにはその手をさへ常談の体《てい》に申しくろめ、三谷さんの手前湯にといはせて返し候へば、清さんは何ともお思ひなさるまじく飛んだ隙潰《ひまつぶ》しをしたなどと申しをられ候ふ事と存じ候、この始末後にて考へ候ふに、私に罰《ばち》でも当つたのかお前様の念《おもい》が通つてゐたのか、拙《つたな》き心には何とも弁《わきま》へがたく候、この文差上げ候ふ私の心お前様に熟《よ》く分り候はんや覚束《おぼつか》なく候へども、先ほど申し候ふ通《とおり》それはどうでも宜《よろ》しく、ただお前様が清さんを大事にしてさへお上げなされ候はば、私の願もその外《ほか》にはござなく候、返す返すも羨《うらや》ましきは清さんのやうな人をお持なされ候ふお前様の身の上にて、たとひどのやうに憂《う》いつらいと思ふ事ありとも、その憂いつらいは頼《たのみ》になる清さんのやうな優しい人を持たぬものの憂さつらさに比べては何でもないと、よくよく御勘弁なさるべく候、また私の事はこの上未練がましく申したくはなく候へども、今までも不身持な女子《おなご》のこの末はどうなり申すべきか、我身で我身が分り申さず、どうして私はかうなつたやら、どうして私はどうならうか知れぬやら、それはお前様に申しても甲斐《かい》なき事と致し候うて、ここに一つ申し置き候ふは、もし少しにてもこの文の心|御解《おわかり》なされ候はば、昨夕罪のない清さんを罪に堕《おと》さなかつたのは兼吉だ、よしや兼吉が心から罪に堕すまいと思つてではないにしても、罪に堕すことの出来ぬやうな何とも知れぬ心に兼吉はなることがあつたといふ事ばかりに候、この後清さんには指もさすまいと思ふ私に候へば、つひ何事もなかつたやうに御附合のほど祈り入り参らせ候かしく、なほなほこの手紙|御取棄《おんとりすて》なされ候ふとも、清さんに
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