可哀さうに私だつてまだ気が狂ふには間があります、なにね清さん詰まらない事なのよ、そりやあさうと清さん今夜は別に用がないなら緩《ゆっく》り遊んでお出《いで》なさいなと、さすがに極《きま》り悪《わ》るげな処へ、兼ての手筈《てはず》に女の来てちよつとこちらへと案内するは、同じ二階の四畳半に網行燈《あみあんどう》微暗《ほのくら》く、蚊《か》の少き土地とて蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》は弔《つ》らねど、布団《ふとん》一つに枕二つ、こりや場所が違ひませうと、清二郎の出ようとするを留《とど》めるは兼吉、胸のみ頻《しき》りに騒がれて、昨夕《ゆうべ》から喫《の》んだ酒の俄《にわか》に頭に上《のぼ》る心地、切角《せっかく》これまで縒《よ》り掛けながら、日頃の願の縁の糸が結ばれようか切れようか、死ぬるか生きるか、極《き》まるは今の束《つか》の間《ま》と思案するもまた束の間、心は※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》語《ことば》は冰《こおり》、ほほほほほ出抜《だしぬけ》だから胆《きも》をお潰《つぶ》しだらうね、話せば直《じき》に分る事ゆゑ、まあちよつと下にゐて下されと、枕頭《まくらもと》の烟草盆を間に置いて二人は坐りぬ、姉さんがさう仰《おっし》やるからは定めてわけがございませうが、お迎の時からこの間《ま》に来るまで、何だか知れぬ事だらけで、夢を見るやうな気がしてなりませぬ、一体これはどうした次第と、いひながら取り出すは古代木綿の烟草入、徐《しずか》に一服吸ひ付くるをぢつと見つめて募るは恋、おや清さんの烟管《キセル》も伊勢新なのねえ、ええこれはといひ掛けしが、これは小花と揃《そろい》とは言ひ兼ねてか口籠《くちごも》る愛らしさ、ほんに私《わたし》の好《い》い気な事ねえ、清さんに話をするつてぼんやりしてゐてさ、話といふのも本当は大袈裟《おおげさ》な位と、兼吉の言ひ出すを聞けば、この雨の日の退屈まぎれ、三谷さんが兼ちやんも誰か呼んで遊べといひしに、呼ぶ人がないといつたら松つあんではどうだとの事、私がつひ松つあんより清さんが好いといつたが起《おこり》、小花さんといふもののある清さんの名を指したのがいかにもづうづうしい、どうでも清さんと寝かして困らせて遣《や》ると言ひ張り、とうとうここにお前さんを連れ寄せて済みませねど、唯少しの間《ま》横にだけなつてゐて下され
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