帰りと心強くいなせしに、一座では口もろくに利《き》かぬあの喰《くわ》せもののお徳《とく》め、途《みち》で待ち受けて連《つ》れ往《ゆ》きしを今朝聞いた悔《く》やしさ、親方の意気地《いくじ》なしは今始まつたではなけれど、私の気にもなつて見て下され、未練ではござりませぬ、唯《た》だ業《ごう》が沸《に》えてなりませぬ、親方の帰つた迹《あと》ではいつもの柳連《やなぎれん》の二人が来てゐたこととて、附景気《つけげいき》で面白さうに騒がれるだけ騒ぎ、毒と知りながら、麦酒《ビール》に酒|雑《ま》ぜてのぐい喫《のみ》、いまだに頭痛がしてなりませぬとの事なり、兼吉がこの話の内、半熟の卵に焼塩添へて女の持ち運びし杯盤《はいばん》は、幾らか気色を直し肝癪《かんしゃく》を和《やわら》ぐる媒《なかだち》となり、失せた血色の目の縁《ふち》に上《のぼ》る頃、お万が客は口軽く、未練がないとはさすがは兼吉つあんだ、好く言つた、相手が相手ゆゑお前に実《じつ》がないとこの三谷が誰にも言はせぬ、さういふ時の第一の薬は何でもしたい事をして遊ぶに限る、あれならといふ人はないか、おれには差当り心当はなけれど、中屋《なかや》の松《まっ》つあんなどはどうだらうといへば、兼吉は寂《さび》しくほほと笑ひ、あんまり未練がなさ過ぎるか知れませねど、腹にあるだけ言つてしまひたいのは私の癖《くせ》、中屋とまでいはれては黙つてはゐられませぬ、松つあんならぬ弟の清《せい》さん、浮気らしいがあの人なら一日でも遊んで見たいと兼て思つてをりました、なるほどさうありさうな事ではあれど、弟の方にはしかもお前の友達の小花《こはな》といふ色があるではないか、頼まれもせぬにおれから言ひ出し、今更ら理窟をいふではなけれど、噂《うわさ》に聞けば小花と清二《せいじ》とは、商売用で荻江《おぎえ》の内へ往き始めし比《ころ》、いつとなく出来た仲だとやら、その上《うえ》松《まっ》つあんよりは捌《さば》けてゐるやうでも、あの生真面目《きまじめ》さ加減では覚束《おぼつか》ない、どうやら常談《じょうだん》らしくもないお前の返詞《へんじ》がおれの腹に落ち兼ねる、お前は本当に清さんを呼ばせる気か、はい本当に呼んでおもらひ申す気でございます、小花さんに済まぬとは私にも熟《よ》く分つてをれど、清さんならと思ふも疾《と》うからなれば、さうなる日には小花さんにはかうと思ひ定めてゐ
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