ヘず》はない。これだけの事を完成するのは、極《きわめ》て容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢《あえ》てする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵《ちり》を中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結《はんけつ》している暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙《さまた》げられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞《ふさ》いで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。
「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。
 丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返
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