迦王《あそかおう》の事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著《どうちゃく》して、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士《たかくすはくし》の所へ駈《か》け附けて、梵語《ぼんご》研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵《きゅうごしら》えに出来る筈《はず》のものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を却《しりぞ》けた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。
 丁度この卒業論文問題の起った頃からである。秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼《あお》く、目が異様に赫《かがや》いて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとした
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