を維持していようが、いつになったら滅亡してしまおうが、そんな事には頓著《とんちゃく》しないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じているらしく行って、虚偽だと思って疚《やま》しがりもせず、それを子供に教えて、子供の心理状態がどうなろうと云うことさえ考えてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云うことを言っている。その必要を認めなくてはならないと云うこと、その必要を認める必要を、世間の人は思っても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於《お》いて認めていられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云うことなんぞを思って見ようもなく、一切無頓著でいるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立って、現今の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しようとしている人はある。そう云う人は、倅の謂う、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云う類《たぐい》である。又それに雷同している人はある。それは倅の謂う、真似をしている人である。これが頼みになろうか。更に反対の方面を見る
前へ 次へ
全51ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング