@教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓《かす》のこびり付いていない教義をも覗《のぞ》いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃《しょうさん》している。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑《の》み込めた。
西洋事情や輿地誌略《よちしりゃく》の盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子《しゅし》の註《ちゅう》に拠《よ》って論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々《ないない》自ら省《かえり》みて見た。倅《せがれ》の
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